にしてしまった。十二時過ぎたので彼も床に入った。先刻までかなり騒がしかった四隣《あたり》の絃歌《げんか》も絶えて、どこか近く隅田川辺の工場の笛らしいのが響いて来る。思いなしか耳を澄ますと川面を渡る夜の帆船の音が聞えるようである。うとうとしている間に二三軒横の言問団子の製餅場で明日の餅《もち》を搗《つ》き初める。しかしそれを気にして床上に輾転《てんてん》しているのは久野だけである。彼は他の人たちの健やかな眠りと健やかな活力を羨《うらや》ましく思った。しかし明日から、彼らと同じく病的な蒼白《あおじろ》い投影のない生活をすることができるのである、それが愉快な予想となって彼の心にあらわれ初めた。
「やっぱりこんな生活に入って見るのもよかった」彼はこうつぶやきながらも一度|強《し》いて枕《まくら》を頭につけた。……

 練習は朝の十時ごろから初まった。ゆっくり寝て、ゆっくり朝飯を済まして艇のつないである台船のところへゆく。敵手の農科はもう出てしまっている。もう千住くらいまで溯《さかのぼ》って練習しているのであろう、工科の艇も繋《つな》いでない。法科も漕ぎ出してしまった。医科と文科の艇だけがいつも朝はお終《しま》いまで残された。この二科はよく台船のところで一緒になった。
「いやあ、どうだい」医科の三番を漕いでいる背の高い西川という男が、高等学校以来の馴染《なじ》みでこっちの窪田に話しかけた。
「不景気だ」と窪田が言う。「農科の奴《やつ》ら八時ごろから出てやがる」
「文科っていうところはいつでも呑気だなあ」
「なにを言うんだ。君の方だって今出るんじゃないか」
「僕らの方は毎朝|腿《もも》を強くするために、三十分ずつランニングをして、それから一時間ほど寝てこっちへやって来るんだ。君の方の呑気とは違う」
「僕の方は自然のリトムに任せてやってるんだからな。決して無理はしないよ」
「ふん、短艇上の自然主義か。自然のままに任せて敗けないようにしろよ。今年の農科は素敵に強いぜ。身体だけを比較したら五科中一番だろう。おまけに柔道三段の奴が二人いる」
「柔道で短艇は漕げやしないよ。それや身体から言えば僕らの方が一番貧弱だ。がまあ勝負というものはわからないもんだからな」
「何しろお互いにしっかりやろうや」
「うん」
 こんな会話がよく二人の間に交わされた。法科と医科とはいつもこっちと親しい口をきい
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