人口論
AN ESSAY ON THE PRINCIPLE OF POPULATION
第一篇 世界の未開国及び過去の時代における人口に対する妨げについて
トマス・ロバト・マルサス Thomas Robert Malthus
吉田秀夫訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懐《いだ》かしめる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)永久的|擺動《はいどう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にすい+熈」、第3水準1−14−55]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)Id. b. iv. p.106. Burke's America, vol. i. p. 187. Charlevoix, Hist. de la Nouvelle France, tom. iii. p. 304. Lafitau, 〔Moe&urs〕 des Sauvages, tom. i. p. 590.
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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    第一章 問題の要旨――人口及び食物の増加率

 社会の改善に関する研究において、当然現れ来たるこの問題の研究方法は次の如くである、――
 一、幸福に向っての人類の進歩を在来阻害し来った諸原因を探究すること、及び、
 二、将来におけるかかる原因の全的または部分的除去の蓋然性を検討すること。
 この問題に十分に立入り、そして人類の改善に在来影響を及ぼした一切の原因を列挙することは、一個人の力では到底出来ないことである。本著の主たる目的は、人類の性質そのものと密接に結びついている一大原因の及ぼす影響を検討するにあるが、これは、社会始って以来不断にかつ有力に働いて来ているにもかかわらず、本問題を取扱った諸論者によってはほとんど注意を払われていないものである。この原因の存在することを証明する事実はなるほどしばしば述べられ認められているが、その自然的必然的結果はほとんど全く看過されている。しかしおそらくかかる結果の中には、あらゆる時代の有智の慈善家が絶えずその是正を目的としたところの、かの罪悪と窮乏、及び自然の恵みの不平等な分配の、非常に多くの部分を、数えることが出来よう。
 私の云う原因というのは、それに対して備えられた養分以上に増加せんとする一切の生物の不断の傾向のことである(訳註)。
[#ここから2字下げ]
〔訳註〕マルサスの意識[#「意識」に傍点]においては、第一版の直接目標はゴドウィン、コンドルセエ流の思想の克服であり、その基礎理論として人口理論が用いられたのであるが、第二版以下ではこの基礎理論の説述そのものが主題となっている。このことは第一版と第二版以下各版との冒頭の文を比較すると最もよくわかる。第一版の冒頭は次の如くである。
『近年自然科学上に行われた予想外の大発見、印刷術の拡大による一般知識の普及、教養ある社会や教養のない社会にすら拡がっている熱心不羈の研究心、政治問題に投ぜられた人を眩惑驚倒せしめる著大の新光明、特に火焔の彗星の如くに新生命新気力をもって鼓舞するかまたは地上の畏縮せる住民を焦烙破滅せしめずんばおかぬ政治線上の恐るべき現象たるフランス革命は、すべて相共に多数の有能の士をして、吾々は、最も重大なる変化、ある程度に人類の将来の運命を決すべき変化の、大時代に、触れているのであるとの意見を、懐《いだ》かしめるに至っている。
『云う所によれば今や大問題が発せられているのである、曰く、人間は今後加速度的に、在来考え及ばなかった無限の改善に向って出発し進み行くであろうか、または幸福と窮乏との間の永久的|擺動《はいどう》に運命づけられ、あらゆる努力を払ってなお所期の目標から測り知れぬ遠きになお止るであろうか、と。
『しかし人類を愛する物が誰もこの面倒な不安の解決をいかに熱心に期待しなければならなくとも、また研究心に富む者がその将来如何を教うべき光明をどんなものであろうといかに切に歓迎しようとも、この重大なる問題を論ずる両方面の論者がなお互いに隔絶していて手を握らないのは、惜しみても余りあるところである。彼等の相互の議論は公平な検討を受けていない。問題はより[#「より」に傍点]少数の点に集中還元されておらず、理論上ですら決定に近づいているとは思われない。
『現存事態を擁護する者は、一派の思弁的哲学者を遇するに狡猾な陰謀家をもってし、彼等は慈善を褒めそやして魅惑的なもっと幸福な社会状態を劃《えが》き上げ現存制度を破壊し自分達の野心の深謀を進めさえすればよいとしているか、または乱暴な気違いの狂熱家であってその馬鹿々々しい思索や飛んでもない背理は理性ある何人もそれに注意を払う必要のないものである、と考えがちである。
『人間と社会との可完全化性を擁護する者は、現存制度の防衛者をこれ以上の軽蔑をもって応酬している。すなわちこれに烙印するに最も惨めな狭隘な偏見の奴隷をもってし、またただ自分がそれにより利益を得るので市民社会の弊害を防衛するものなりとしている。更にまたこれを劃くに利益のために悟性を売買するの徒なりとし、またその精神力は偉大にして高尚なるものはいずれもこれを把握する力なく、身の前五|碼《ヤード》以上を見る明なく、従って叡智に富む人類の恩人の見解を取容れることは全然出来ないものとしている。
『かくてこの敵対の中にあって真理の大道は苦難せざるを得ない。この問題を論ずる両方面にはいずれも真によい議論があるのだけれども、それは正当の力を発揮するを許されないでいる。双方は自説を執って、反対側の者が述べる所を注意して自説を訂正改善しようとはしない。
『現存秩序を擁護する者は一切の政治的思弁を概括的に否としている。彼は退いて社会の可完全化性推論の論拠を検討することすらしないであろう。いわんやその誤りを公平に指摘するの労を採るが如きことはなかろう。
『思弁的理論家もまた同じく真理の大道を犯している。彼はもっと幸福な社会状態の有様を最も魅惑的に描き上げてこれのみに眼を止めて、一切の現存制度を口を極めて罵倒して喜んでおり、その才能を用いて弊害を除くべき最良最安全の方法を考えることなく、また理論上ですら完全へと向う人間の進歩を脅かす恐るべき障害に気づいているようにも思えない。
『正しい理論は常に実験によって確証されるというのは学問上認められた真理である。しかし実地の上では最も知識が広くかつ鋭い人にもほとんど予見し得ないような多くの摩擦や多数の微細な事情が起るので、経験に照してもなお正しかったものでなければいかなる理論も大抵の問題について正しいものとは云い得ない。従って経験に照してみない理論は、それに対する反対論をすべて念入りに考察し、これを十分にかつ首尾一貫して反駁してしまうまでは、おそらくそうであろうということは出来ず、いわんや正しいとすることは出来ない。
『私は人間と社会との可完全化性を論じたものを二三読んで非常に愉快であった。私は彼等が提供している、人を魅了するような光景に興奮と興味とを覚えた。私はこのような幸福な改良を熱心に希望している。しかしその途上には大きなしかも私の考えでは打克ち得ない困難があると思う。この困難を説明するのが私の今の目的であるが、しかし同時に私はこれをもって、革進を擁護するものを打倒する理由だといって歓喜しているものでは決してなく、この困難が完全に排除されるほど私にとって愉快のことはないということを、ここに宣明しておく次第である。
『私が述べようとする最も重要な議論は確かに新奇なものではない。その基礎たる原理は一部分はヒュウムが述べた所であり、またアダム・スミス博士は更に広くこれを述べている。ウォレイス氏もこれを述べ今の問題に適用しているが、もっともそれに十分の重きを置いて説いてはいない。そしておそらくこれは私の知らない多数の論者が述べていることであろう。従ってもしこれが正当十分に反駁されていたのであるならば、私はこれを今まで私が見たものとはやや異った見地で論じようとは思うが、それにしてもこれをもう一度述べる気にはならなかったことであろう。
『人類の可完全化性を弁護する人々がこのことを何故に無視するかは容易には説明がつかない。私はゴドウィンやコンドルセエの如き人々の才能を疑うことは出来ない。私は彼らの公正を疑おうとは思わない。私の見る所ではこの困難は打克ち得ないものであるがおそらく他の人も大抵はそう思うことであろう。しかるにその才能と智力とが周知なこれ等の人々はこれにほとんど留意しようとはせず一貫した熱意と信念とをもってかかる思索の道を進めているのである。彼らは故意にかかる諸論に眼を閉じているのであると云う権利は確かに私にはない。私としてはむしろ、かかる議論が私にはいかに真であると思われて止まないとしても、かかる人々がこれを無視しているのであるからその真なることを疑うのが本当であろう。しかしこの点においては吾々は誰でも誤謬に陥るの傾向を余りにも有《も》ち過ぎていることを認めなければならない。もし私が一杯の葡萄酒がある人に何度も出されているのにその人がこれに見向きもしないのを見るならば、私はその人が盲目であるか無作法な人だと考える気になるに違いない。しかしもっと正しい理論は、私の眼がどうかしていたのであり、出されたものは葡萄酒ではなかったということを、私に教えるかもしれない。
『議論に入るに当って、私は、一切の臆説を、すなわち正しい学問的根拠によればそれが実現するであろうとは考えられない仮定を、この問題から切離してしまうことを、前提しなければならない。ある論者は人は終《つい》には駝鳥になるものと考えると私に云うかもしれない。私はこれをうまい具合に否定することは出来ない。しかし彼が思慮ある何人かを同意見ならしめようと思うならば、彼は、人類の首は徐々として長くなって来ており、唇はますます固く大きくなって来ており、足は日に日にその形を変えており頭髪は羽毛に変りはじめているということを、まず証明しなければならない。そしてかような素晴らしい変化が本当に起っているということが証示されない中《うち》は、人間が駝鳥になれば幸福になるとしゃべり立て、その走力と飛翔力を述べ立て、人間は一切のつまらぬ贅沢を問題にしなくなり、生活必需品の蒐集にのみ当り、従って各人の労働分担額は軽微となり閑な時間は十分になる、と云ってみたところで、それは確かに時間つぶし議論つぶしに過ぎない。』
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 フランクリン博士は、動植物が密集しそして相互の生活資料を妨害し合うことから生ずるものを除いては、その出産性に対する限界はない、と云っている。彼は云う、地球の表面に他の植物がないならば、徐々としてただの一種たとえば茴香が蔓延して全土を蔽《おお》ってしまい、またそれに他の住民がいないならば、それは数世紀にして、ただの一国民たとえば英蘭人で充ち満ちるであろう、と1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Franklin's Miscell. p. 9.
[#ここで字下げ終わり]
 これは議論の余地なく本当である。動植物界を通じて、自然は生命の種子を、最も惜しみなく気前よく播き散らしたが、しかしそれを養うに必要な余地と養分とについては比較的これを惜しんだ。この土地に含まれた生命の種子は、もし自由にのびることが出来るならば、数千年にして数百万の世界を満たすであろう。だが、必然という、緊急普遍の自然法則は、それを一定の限界以内に抑制する。動物の種と植物の種とはこの大制限法則の下に萎縮し、そして人間も、いかなる理性の努力によっても、それから逃れることは出来ないのである(訳註)。
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