級的利益理論であることを闡明《せんめい》する上に極めて重要なことと考えられるのである。
        五
 最後にごく簡単にマルサスの伝記を附記しておこう。
 トマス・ロバト・マルサスはダニエル・マルサスの次男として、一七六六年二月十四日に生まれた。一七七九年に彼は教育のためにリチャアド・グレイヴズのもとに遣られ、一七八二年には更にギルバアト・ウェイクフィールドのもとに遣られた。そして一七八四年には彼はケインブリジのジイザス・コレジに入学し、一七八八年に、このコレジ唯一の第九数学優等生として卒業した。一七九六年にはサリのオールベリの副牧師をしていたが、この時前述の『危機』なるパンフレットを書いた。しかしこれは出版書肆の拒絶によって日の眼を見なかったこと前述の通りである。
 父ダニエルはヴォルテールと文通を交わし、またルウソオの遺稿保管人であったと云われているほどの、進歩的思想の所有者であった。そこでこの父子の間には、『人口論』の序言に書いてあるように、フランス革命の思想的内容をなす進歩的思想に関して、なかんずくゴドウィンの『研究者』等に表れた思想に関して、口頭の討論が行われ、その結果として『人口論』第一版が現れることとなったのである。
 第一版の成功にむしろ驚愕したマルサスは、一七九九年に、学友のオタア、クラアク、及びクリップスと共に海外旅行に出かけ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、及びロシアを訪問して、その第二版のための材料を蒐集した。更にまた彼は別にフランス及びスイスにも赴いた。その結果として一八〇三年に第二版が現れたことは、前述の通りである。そしてこの時に至って、彼ははじめて匿名を捨てたのである。(彼はこの間に一八〇〇年に『食料品の高き価格』なるパンフレットを書いているが、これもまた匿名であった。)
 一八〇四年四月十二日に、道徳的抑制の提唱者マルサスは――従って確かに『婚資をたくわえて』――ハリエット・エカアソオルと結婚した。彼らの人口増加力はアメリカの植民地におけるほど大でなかったと見えて、子供はわずかに三名に止った。
 一八〇五年に、東印度会社の現地向職員教育の目的を有つ東印度大学が、ヘイリベリに設置され、マルサスは招かれて歴史及び経済学の教授に就任した。彼はこの職に死ぬまで止った。なお彼は世界最初の経済学教授である。
 彼は一八三四年十二月二十九日に心臓病で死んだが、それまでに実に多数の著書及びパンフレットを書いている。これを列記すると次の如くである。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
1. The Crisis, a View of the present interesting State of Great Britain, by a Friend to the Constitution. Written in 1796. ――公刊されずに終る。
2. An Essay on the Principle of Population, etc. 1st ed., 1798.
3. Do. 2nd ed., 1803.
4. Do. 3rd ed., 1806.
5. Reply to the chief Objections which have been urged against the Essay on the Principle of Population. Published in an Appendix to the third Edition. 1806.
6. Essay on Population. 4th ed., 1807.
7. Do. 5th ed., 1817.
8. Additions to the fourth and former Editions of an Essay on the Principle of Population, &c. &c. 1817.
9. Essay on Population. 6th ed., 1826.
10. An Investigation on the Cause of the present high Price of Provisions, By the Author of the Essay on the Principle of Population. 1800.
11. A Letter to Samuel Whitbread, Esq. M. P. on his proposed Bill for the Amendment of the Poor Laws. 1807.
12. A Letter to the Rt. Hon. Lord Grenville, occasioned by some Observations of his Lordship on the East Indea Company's Establishment for the Education of their civil Servants. 1813.
13. Observations on the Effects of the Corn Laws, and of a Rise or Fall in the Price of Corn on the Agriculture and General Wealth of the Country. 1814.
14. An Inquiry into the Nature and Progress of Rent, and the Principles by which it is regulated. 1815.
15. The Grounds of an Opinion on the Policy of restricting the Importation of foreign Corn ; intended as an Appendix to "Observations on the Corn Laws." 1815.
16. Statement respecting the East−Indea College, with an Appeal to Facts, in Refutation of the Charges lately brought against it, in the Court of Proprietors. 1817.
17. Principles of Political Economy considered with a View to their practical Application. 1820.
18. Do. Second Edition with considerable Additions from the Author's own Manuscript and an original Memoir. 1836. ――死後に出版せらる。
19. The Measure of Value stated and illustrated, with an Application of it to the Alterations in the Value of the English Currency since 1790. 1823.
20. Art. "Poor−Laws," Supplement to the 4th, 5th, and 6th Editions of the Encyclopaedia Britannica, vol. vi. 1824.
21. Art. "Population," ibid. 1824.
22. On the Measure of the Conditions necessary to the Supply of Commodities. Read on May 4, 1825. (Transactions of Royal Society of Literature of the United Kingdom. Vol. I., Pt. 1. 1826.)
23. On the Meaning which is most usually and most correctly attached to the Term "Value of a Commodity." Read on November 7th, 1827. (Ibid., Vol. I., Pt. 2. 1829.)
24. Definitions in Political Economy, preceded by an Inquiry into the Rules which ought to guide Political Economists in the[#底本では「the」は重複] Definition and Use of their Terms ; with Remarks on the Deviation from these Rules in their Writings. 1827.
25. A Summary View of the Principle of Population. 1830.
[#ここで字下げ終わり]
 右の中の若干に説明を加えれば、五及び八はその各々の以前の版の購買者の便宜のために、増補修正せる部分を別刷としたものである。一二及び一六は、彼が職を奉じた東印度大学の状態につき非難の声の起った時に、これを駁して著したものである。一三、一四、及び一五はいわゆる穀物論争または地代論争に関するものであり、その論敵は主としてデイヴィッド・リカアドウであった。その中《うち》特に一四は、これあるが故に、マルサスは差額地代説の創説者の一人と称せられるのであり、これは元来東印度大学における彼れの講義に由来するものであって、後にそれは拡大されて一七の中に包含された。なお彼は一七を訂正増補する意図をもって加筆していたが、それは生前には出版されず、死後に至ってようやく出版された。それが一八である。彼はこの一七において既にリカアドウと価値について大いに争っているが、一九は端的にこのリカアドウとの価値論争の産物であり、一七において支配労働と穀物価格との中項をもって価値の尺度となした見解をここで改め、支配労働こそが価値の不変的尺度であると主張している。二〇及び二一は云うまでもなく百科辞典への寄稿であり、二一の内容は二五において再現されているが、しかし二五は彼自身の手になる出版ではないように思われる。
 右によって知られる如くに、マルサスはリカアドウと多年にわたって地代や価値やその他多くの問題について論争した。それは著書やパンフレットだけではなく、長年月にわたる多数の手紙の交換によっても行われた。ただしマルサスの手紙はリカアドウのものほどは残っていない。
 なお右に挙げた著書及びパンフレットのほかに、マルサスの書いた手紙や雑誌論文もかなり残っている。手紙は、残っているものとしては、リカアドウとの論争のものよりは、むしろ、人口理論に関するものの方がより[#「より」に傍点]重要である。
[#ここから1字下げ]
 後記――この解説では、頁の制限があるので、ただ書き放しにしたに止り、立証引用が行われていないので、無責任な独断的記述と取られる虞《おそれ》がないでもないが、しかし次の拙著では私はこれらのことを立証すべく努めているから、神経質の読者には一応参照を願いたい、――
[#ここから2字下げ]
マルサス人口論各版の差異(昭和七年、東北帝大)――経済学説研究、マルサスの人口・歴史・経済理論(昭和七年、第百書房)――マルサス批判の発展(昭和八年、弘文堂)――黎明期の経済学(昭和十一年、巌松堂)――新マルサス主義研究(昭和十五年、大同書院)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

       序言(訳註――第一版のみに
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