@Revolution Sermon. London 1790.
William Coxe ; A Letter to the Rev. Richard Price, etc. London 1790.
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 この論争の口火を切ったものはリチャアド・プライスである。彼はそれまで英国に関する人口論争に参加し、英国の人口減退を主張し、貧困に関する世論を喚起せんとしていたのであった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかるに彼は今やフランス革命を見、それが名誉革命の精神と相通ずることはなはだ多きを感じた。しかし彼によれば、名誉革命は大事業ではあったが決して完全な事業ではなかった。そこで彼は、フランス革命に倣い、名誉革命の精神に復帰して、英国の社会的並びに政治的の改革を行わんことを、主張したのである。すなわち彼は一七八九年の『名誉革命記念協会』の集会において一場の説教を試み、愛国心を論じ、我国を愛するがためにはそれをして愛せられるに値するものたらしめる必要のあることを説き、今や自由の光はアメリカに始まってフランスに達し、終に全ヨオロッパを覚醒せしめんとしている、と主張して、フランス革命を擁護し英国の改革を支持した。続いてプライス一派は更にこれに次いで、フランス国民議会に祝辞を送ったが、これは国民議会からの感謝文によって応えられた。これが問題の発端である。
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 1)[#「1)」は縦中横] Richard Price ; Observations on Reversionary Payments ; etc. London 1st ed., 1771 ; 2nd ed., 1772 ; 3rd ed., 1773 ; 4th ed., 1783. Do. ; An Essay on the Population of England, etc. London 1780.
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 以上のようないきさつは英国特権階級に驚愕の念を与えた。彼らの一部はなお平静を持したが、他の一部はこれに対して何事かがなさるべきことを希望した。かくて、ホロウェイ、セイア、コックス等のプライス批判が現れたが、なかんずく最も重要なのはエドモンド・バアクのそれである。
 バアクの所説の中心点は次の如くである、――およそ英国における一切の改革は過去の先蹤《せんしょう》を典拠として行われたのであり、またそうあるのが当然である。しかるに英国には世襲の王位や世襲の貴族をはじめ、また英国流の自由が遠い祖先から伝えられて来ている。従って真に改革が必要であるならばこれに従って改革を行えばよいのであって、フランスに学ぶような必要は少しもない。かくの如くフランス革命は、啻《ただ》に英国の先例たらしむべき資格を欠くばかりでなく、更にただ革命としてのみ見ても最悪の性質のものである。他の革命においては、その犠牲となったものは常に悪虐極まりない人物であった。しかるにフランス国王が穏和な合法的な国王であることは疑問の余地がないのに、フランス人はかかる模範的統治者に対して革命を起したのである。従って単にフランスから何物も学ぶべきではないというに止らず、更に進んで英国をしてフランスの模範たらしめるべきである、と。
 なおバアクはかかるプライス批判の外に、積極的にフランスにおける反革命運動を組織し支持するに至ったので、ラディカルズは彼に対して著しい怒りの念を懐くこととなった。かくて前述の如くウォルストウンクラフトをはじめ、プリイストリ、マッキントッシュ等数十名のものは一斉に立って、バアクの所論を覆えそうとしたのであるが、その代表的なものはペインの『人権論』である。
 ペインによれば、バアクの所論は彼自身の述べる所そのものによって否定される。けだし改革は過去の先蹤によるべきであるとすれば、その先蹤はまたそれ自身の先蹤を有《も》つであろう故に、結局創造の時まで遡るの外はなく、そして創造の際には人間は人間であるのみであり、それ以外の何ものでもあり得ないのである。しかるに生殖は単に創造の延長に過ぎぬ故に、人間は人間として、創造の際におけると同様に、その生存の権利を有つはずである。しかるにかかる権利すなわち彼れのいわゆる自然的権利の中には、なるほど個人において権利としては完全であるが、その行使において不完全なものがある。それは安固及び保護に関する権利である。かくて各個人はかかる権利を社会の共通貯蔵に持込み、必要の場合には共通貯蔵からその保護を受けることとなる。これいわゆる市民的権利である。ひるがえって政府の起源を見るに、それは迷信か、力か、この市民的権利かであり、フランスにおいて形成されつつあるものはこの第三のものであるが、英国の政府はウィリアム征服王以来その第二に属する。従って英国もまた一つの『フランス革命』を必要とする、というのである。
 バアクはこれに対し正面からは答えなかったが、しかしその政治的態度の故にホイグ党から離脱するに当って若干ペインに触れ、更に実践的には法律によるペインの処刑を大いに運動したが、しかしこれは成功しなかった。一方ペインは更に続いて『人権論』第二部を公けにし、国王及び貴族を大いに罵倒するかたわら、貧困問題の重要性を強調し、貧民法を廃止して貧民に権利としての生存を保証せんことを主張した。この書については終にバアクの運動は効を奏し、ペインは起訴され終に有罪の判決を受けたが、彼は既に身はパリにあり、その処刑を免れることが出来た。
 ペインの『人権論』は、バアクの書と並んで多大の反響を惹き起したが、これに続いて現れたゴドウィンの『政治的正義』の反響も、これに劣るものではなかった。しかしこの書は、ペインのそれとは異ってもはや論争の書ではなく、積極的理論の展開がその主題である。積極的理論とは、空想的思弁的な無政府共産生義である。すなわちゴドウィンによれば、政府の目的は単に暴力の行使にあるにすぎない。従ってそれは悟性または意思の働きたる服従とは何らの適法的関係をも有ち得ない。されば、あるべきものは『政府なき簡単な社会形態』でなければならない。更に彼れの共産主義は如何というに、有用物の所有ないし消費を決定するものは正義でなければならない。換言すればそれは必要ないし欲望によって決定されなければならない。他方労働もまた万人の共通に担当するところでなければならない。従って、もし一方では奢侈に耽り得る人がいるのに、他方健康や生命を破壊してまでかかる奢侈に必要な物資の生産に従事するものがいるのは、正義に反することである。結局生産及び消費の全分野において共産主義が導入せらるべきである、というのである。ただここに注意すべきは、彼が、人口の増加によるかかる理想社会の終局的困難を予想していたことである。しかし彼によれば、その時は遠いのであるから、かかる遠い将来の困難が予想されるからといって、現在の実質的進歩に躊躇すべきではない、というのである。
 彼はなおこれに続いて『研究者』を著している。これはマルサス父子の論争を誘発し、その結果として子マルサスが『人口論』第一版を著すこととなったものであるが、しかし理論的興味は多からぬものである。
 かかる時に、また、人類の『不定限の可完全化性』を主張するコンドルセエの楽観的思想1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]が、フランスから海を越えて渡って来た。彼れの思想は一種の歴史観を基調とするものである。すなわち彼によれば、人類の歴史は将来をも含めて十段階に分たれ得るものであり、この第九段階と第十段階とを分つものがフランス共和囲の成立である。しからばこの時から始まる第十段階においてはいかなる見通しがなされるかというに、国民間の不平等の消滅、同一国民内の不平等の消滅、及び人類の真の完成、の三つがそれである。そして科学や文明の進歩を見、人類の精神とその能力とを検討するならば、この三つは果てしなく実現されるであろうと考えられる。――しかしながら、その際には、ゴドウィンの頭にも浮かんだところの、人口の増加による終局的困難が生じないであろうか、という疑問は、また彼れの頭にも浮かんだものであった。これに対して彼もまた、時は遠いと答える。しかし彼もまた、これではその時が到着した時に対する真の解答にはならぬことに気附いて、その時には産児調節の手段に出ずべきことを説いている。かくて彼は、かくの如き完全化の進行によって、終に人類は不死になるに至るものとさえ、考えているのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de Condorcet ; Esquisse d'un Tableau Historique des Progre`s de l'Esprit Humaine. L'An III de la Re'publique.〕
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 かくの如き社会の将来に関して相次いで現れた楽観的見解を否定し、よってもってフランス革命により生じた一種の狂熱状態を沈静せしめるの役割を演じたのが、外ならぬマルサス『人口論』第一版である。
        二
 マルサスの『人口論』第一版は、匿名の下に、一七九八年に現れたのであるが、これに先立って一七九六年、彼は公刊の目的をもって、フランス革命に影響されて混沌たる状態にある時勢を論じた一つのパンフレット1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]を書いた。これは終に公刊されずに終ったが、しかし吾々はエンプスンが後に試みた引用と紹介2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]とによってその大略を知ることが出来る。
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 1)[#「1)」は縦中横] これは次の如く名附けられるはずであった、―― The Crisis, a View of the Present Interesting State of Great Britain, by a Friend to the Consitution.
 2)[#「2)」は縦中横] Edinburgh Review for Jan., 1837. "Art. IX. Principles of Political Economy considered with a View to their Practical Application. …… etc." by Empson.
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 エンプスンによれば、このパンフレットは、政治論、宗教論、及び経済論の三部分に分たれているのであるが、これを一読すれば、マルサスがこれによって擁護せんとしたものが、いわゆる地主階級及び中流階級であり、すなわちラディカルズによって最も攻撃されたところの政治組織の担当者たる特権階級であったことが、わかるのである。
 このパンフレットは出版書肆の拒絶によって日の眼を見ないでしまったが、それに次いで彼が一七九八年に著した『人口論』こそは、彼を一躍時代の寵児たらしめたものである。
『人口論』を誘発するに至った直接的動機は、その序言に明かな如くに、ゴドウィンの著『研究者』の中に収められた『貪慾と浪費』なる論文について、彼がその一友――実はその父ダニエル・マルサス――と交わした会話にある。しかるにこの会話は社会の将来の改善に関する一般的問題へと移行して行った。そしてこの一般的問題に関するマルサスの見解をまとめたものが、『人口論』第一版なのである。
 ここにマルサスのいわゆる一般的問題とは、人類はこれから加速度的に限りなき進歩をなして行くものであるか、または幸福に達すれば再び窮乏に沈淪しこの窮乏がまたも次の幸福の出発点となるというふうに永久の擺動《はいどう》(オシレイション――マルサスはこの語そのものもその観念もこれをコンドルセエから得て来たもののように思われる)に運命づけられていなければならぬのであるか、ということである。そしてマルサス
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