として『人口論』第一版が現れることとなったのである。
 第一版の成功にむしろ驚愕したマルサスは、一七九九年に、学友のオタア、クラアク、及びクリップスと共に海外旅行に出かけ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、及びロシアを訪問して、その第二版のための材料を蒐集した。更にまた彼は別にフランス及びスイスにも赴いた。その結果として一八〇三年に第二版が現れたことは、前述の通りである。そしてこの時に至って、彼ははじめて匿名を捨てたのである。(彼はこの間に一八〇〇年に『食料品の高き価格』なるパンフレットを書いているが、これもまた匿名であった。)
 一八〇四年四月十二日に、道徳的抑制の提唱者マルサスは――従って確かに『婚資をたくわえて』――ハリエット・エカアソオルと結婚した。彼らの人口増加力はアメリカの植民地におけるほど大でなかったと見えて、子供はわずかに三名に止った。
 一八〇五年に、東印度会社の現地向職員教育の目的を有つ東印度大学が、ヘイリベリに設置され、マルサスは招かれて歴史及び経済学の教授に就任した。彼はこの職に死ぬまで止った。なお彼は世界最初の経済学教授である。
 彼は一八三四年
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