むを得ず行われるらしいこの競争によって無益に失われる莫大な費用を製品の向上に向けられたなら、販売者にとっても購買者にとってもどれほど幸いであろう。私は自分が正価販売をして、確実な商法の喜びを知るとともに、森永明治の二大会社初め他の同業者にも切にこれを勧めるものである。
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 新宿中村屋として

    新宿へ進出の前後と土地の変遷

 本郷中村屋としての我々の第五年はこうしていよいよ順調に進み、よそ目には申し分なく見えたかも知れないのであるが、じつは非常な苦境に立たされていた。その事情は私が新たに語るまでもなく、妻がその著「黙移」の中で詳しく述べているから、ここにはそれを引くことにする。
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 日露戦争の三十七、八年までは、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入りは人目に立ち『あの店は売れるぞ』というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まず、ある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによる税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ち行かないのでした。
 それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届け出の額に何程かの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならぬことになりました。これは何と申しても私一生の失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
 よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売りが十円に達した日には、西洋料理と称して店員には一皿[#「一皿」は底本では「一血」]八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およその様子は解って頂けると思います。ただでさえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことで中村屋は立ち行く筈もなく、私のあやまちと申しますか、心弱さと申しますか、とにかく自分ゆえこんなことになったと思い、一倍苦しうございました。
『仕方がない、言ってしまったことは取り返せません。この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう』
 これはその時期せずして一致した私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからといって、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけねばなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何程も買って下されるものではない、と言って高級な品を造って見たところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくとも、私どもの力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所へ移転の説が起らずにはいないところでありました。
 支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになります。とその頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍兵士として行軍することを条件にして、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。――(「黙移」)
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 当時我々が郊外において将来有望の地と見込をつけたのは、文士村と称されていた大久保の新開地、淀橋、角筈、千駄ヶ谷方面であったが、本郷からこの辺まで約二里半の道である。じつに行商係の苦労も容易でなかった。この行商には救世軍兵士の浅野以前に狩野という店員がこれに当って、最初の苦労をしたのであるが、一日ようやく五十銭程度の売上げで、これでは結局中止のほかあるまいと悲観された。しかしなお断念せずに浅野をこれに向けて見たのであった。
 浅野は宮城県涌谷町の呉服屋の二男であったが、親の反対を押し切って、救世軍に身を投じた青年で、その純情と努力と熱と、彼は入店の初めから、興味ある※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話を中村屋に残している。彼が狩野に代って行商に出ると、悲観されていたこの方面の形勢が一変して、一年の後にはもう彼一人では得意先をまわり切れぬという盛況となった。すなわち狩野では出来ないことが浅野では出来たのである。これを見ても適材を適所におくということがいかに大切であるか、人間に向き不向きのあるのも免れ難いこととして、人を用いる場合にはよくよく注意せねばならぬことである。再び「黙移」を引用。

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 ――その頃大久保の新開地は水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――、戸川秋骨先生、それに島崎藤村先生、島崎先生は三人のお子を失われてから新片町に移転されましたが、とにかくそういう方々のよりあいで一時は文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠二氏などが、その行商の最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれお引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつまわることにしておりました。この救世軍の人がじつによく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に充ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり、したがってお得意も日に日に増え、一週に二度となり三度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
 それがだんだんと拡がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになって、すると今度はそのお得意様の方から『どうだ一つこちらへ支店を出しては』というお心入れで、私は、それをききました時は有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補地をあらかじめ見て来たといって『千駄ヶ谷駅付近が最も有望です』という報告でした。
 しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床に就きがちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りつづけておりました。その中で、はっと気がつき『これではいけない』と起き上がりました。『店の人たちがあんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては』と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。――(「黙移」)
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 ここにもある通り、その時浅野はお得意の最も集中した千駄ヶ谷を主として、今の代々木駅付近を希望したので、我々は浅野につれられてそちらから初めに見てまわり、新宿の方へ出たのであった。いかにも千駄ヶ谷は屋敷町で得意の数は多かったが、私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、すなわち新宿終点に眼をつけたのである。ちょうどそこに二間まぐち、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、早速その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
 この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、日の出屋になっている。
 さていよいよ支店を出す段になって、全く予期せぬことが起った。それはこの支店を預って大いに働いてくれる筈であった浅野が、突然郷里に呼びかえされてしまったことで、彼もここまで運んで来ながら心残りであったろうし、私もせっかく着手する仕事にちょっと中心を失ったかたちであった。やむを得ず他の店員を留守番としてそこにおき、妻が毎日本郷から出張することにして開店した。明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
 しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒《すさ》んだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
 さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。
 さていささか余談にわたるが、私が新宿に来たこの前後数年間が、あの辺の地価権利などの変動の最も激しかった時で、新宿変遷史の一端ともなるであろうから、少しその当時の状況を述べておこう。
 私に今の場所を売ってくれた真上氏は、それより三年前にこれを他から五百五十円で買い取ったものであった。それを私は三千八百円で譲り受けたのであるから、この土地は三年間に七倍となったわけで、当時の田舎くさい新宿にじつはもうこれだけの景気が動いていたのである。さらにこの三千八百円の場所は三十年後の今日、地上権一坪平均千円として二十六万円、すなわち七十倍という躍進ぶりである。
 また同じ真上氏は現在住友銀行支店となっている場所を、三十八年に一坪十円で買ったところ、五ヶ月後には十五円で売れた。さらに一ヶ月後にはこの十五円の地を浅田という人が三十円で買った。これなどは僅か六ヶ月の間に三倍となったのである。この浅田氏の浅田銀行が代って現在の住友銀行になった。
 また私が最初権利なしで二十八円の家賃で借りた家から現在のところへ移ることが知れると、六百円くらいの権利金なら出すからという希望者がたくさん現れた。しかし私は缶詰の知識を私に与えてくれた豊田氏の御子息が、その希望者の一人であったので、一ヶ年半の間に私が家主に支払った家賃の四百二十円でこの人に譲った。つまり一ヶ年半を無家賃で住んだことになったのである。
 しかしまさか新宿が今のようになろうとは誰しも予測し得なかったから、ある友人などは私が三千八百円という大金をこんな場末に投げ出すくらいなら、四谷の方に相当の所があるではないか、こんな所はよせと言って忠告したもので、実際その時分は四谷塩町付近が山の手銀座と称されて、市内屈指の繁栄地であった。幸いにして私の見込は違わなかったが、いろいろこうして思い出して見ると、じつに今昔の感が深い。
 新宿駅は明治四十年にはまだ今の西武電車の発着所の所にあって、やっと四間に八間くらいの至って貧弱なものであった。それが急に拡張することになって
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