な作り出したいものと心がけていたが、ある日初めてシュークリームを食べて美味しいのに驚いた。そしてこのクリームを餡《あん》パンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、一種新鮮な風味を加えて餡パンよりは一段上がったものになるなと考えたのである。
 早速拵えて店に出すと案の定非常な好評であった。それからワップルに応用し、ジャムの代りにクリームを入れて見たのである。ちょうどこの試作の時に島田三郎氏が折よく見え、早速一つ試食を願うと『これは美味しい、いいものを思いついた』と氏も賞讃され、店に出すと果たしてこれもよく売れた。
 クリームパンとクリームワップルはその後他の店でも作るようになり、今日ではもうありふれて珍しくもないが、こんなに拡がって日本全国津々浦々まで行き渡ったことは、私として愉快に感じる。
 なおこのついでに葉桜餅のことを言っておくのも無駄ではあるまい。これはだいぶ後で、大正も終りの方のことであった。五月も十日頃、我が淀橋町の役場から電話で、小学校生徒のために赤飯一石五斗の註文があった。ちょうど私が店にいたので電話で註文をきき、早速|糯米《もちごめ》を水に浸けるように命じて帰宅したのであったが、翌朝行って見ると番頭から意外な報告である。それは役場からまた電話があって註文の取消しがあり、やむなく承知いたしましたが、その糯米の始末に困っておりますというのであった。
 私も驚いて、註文の間違いは役場にあって、この方には少しの手落もないものを、電話一つで損害の全部を引き受ける馬鹿があるかと叱っては見たものの、何としてもこの一石五斗の水に浸した糯米の始末には閉口した。
 そこで取りあえず、店で朝生《あさなま》と称している田舎、ドラ焼、そば饅頭などの製造をいっさい中止させ、その赤飯用の糯米を少しつぶして桜色をつけ、餡を入れて桜の葉に包み「新菓葉桜餅」として売り出して見た。するとこれが葉桜、季節に適うてまず新鮮な感じを呼んだことであろう、たいへんに受けて、拵えても拵えてもみな売り切れ、次の日と二日で一石五斗の糯米をきれいに用い尽してしまった。あまり良く売れるので引き続き毎朝製造し、およそ一月の間に二十石もの糯米を使用したほどであった。
 この葉桜餅も今日では全国に行き渡り、季節の感を新たにする菓子の一つとして愛されている。

    缶詰業の先覚豊田翁の卓見

 地方から東京に出て来て商売をしようという時、誰でも一度はきっとその故郷の物産を取り寄せて店におくことを考える。御多分に洩れず私も中村屋のはじめ、信州の杏の甘露煮缶詰をたくさんに仕入れ、これを店において大々的に売り捌こうとした。そしておきまり通り失敗した。東京には日本全国はもとより外国からも輸入されて、じつに多種類の食品が入り込み、それを自在に選択して用いている東京人であるから、その嗜好はじつに複雑で、いかに一地方で自慢の品だといっても、決してそれだけで満足はしないのである。
 地方ではそれが解らぬから、青森からは東京に林檎を出して失敗し、山形の「乃し梅」越後の「越の雪」岡山の「きびだんご」等々、地方の名物で、東京に販売所を出して失敗しないものはないと言ってよいくらい、どんなに地方で物産奨励と意気込んではるばる品物を輸送し、販売所を東京に設けて見ても東京の家賃は高い、一地方の名産の一、二種ぐらいを販売して立ち行くものではないのである。客の立場から見ても、青森の林檎がどれほど好ましかろうと、それ一種の籠詰ではちょっと進物になりかねる。信州の杏の缶詰もその通り、そこに気がつかなかったのは、私がやはり田舎者であったのである。
 私はまた、信州の山林にたくさん野生する山葡萄からジャムを造って売り出してはどうかと思い、缶詰業界の大先覚豊田吉三郎翁を訪問して教示を乞うた。翁はこれに答えて明快なる断定を下された。
『山葡萄はジャムとしては相当味わえるが、商品としては見込がない、あの通り山林に野生するものでごく低廉に手に入るところから、誰でも一度は考えて見るのだが、さてこれを商品として売り出すようになりますと、原料は年一年と払底して次第に山の奥深く入って採集せねばならなくなり、原料代は高くなって採集量はかえって少なくなるというのが順序です。で、せっかく販路が拡張されて相当の売行きを見る頃は、製品は逆に格高となり、終には中止せねばならない。そこへ行くと栽培果実を原料としての製品は、最初は天然物に比してはるかに格高であるが、販路拡張して多量に需要されることになれば、栽培技術は進歩し、製造機関は完成し、年一年と原価の引下げを見ることになって、商品としての価値はますます向上して行くものです。それゆえ山葡萄のような自然生のものは、自家用の原料としては適当ですが、商品としてはほとんど価値を認められません』
 私はなるほどと思い、その教えを深く感謝した。この山葡萄に着目したのは私ばかりでなく、福島県岩手県等でこれから葡萄液を製造することを思いつき、苦心研究中の人があった。私はそれらの人々にもこの豊田翁の言を伝え、その失敗を未然に免れしめることが出来た。

    割引券を焼く

 明治三十九年十二月は、我ら夫婦が中村屋を譲り受けてから満五年に相当した。『五年経った』この感懐は私の胸に深かった。書生上がりの素人が失敗もせずにどうやらここまでやって来たのだ、また店は日に日にいささかずつでも進展しつつある。これ偏《ひとえ》にお得意の御愛顧の賜物であると思うと、私は何かしてこの機会に謝恩の微意を表したくなった。そして思いついたのが開業満五周年記念として、一割引の特待券を進呈することであった。割引券も上品に美術的にと意匠して、正倉院の御物中にあるという馬を写して相馬の意味を通わせ、当時有名な凸版印刷会社に調製を頼んだ。
 その割引券一万枚が出来上がって間もなくのことであった。「松屋のバーゲンデー、売り切れぬ間に」という新聞広告が目についた。今の銀座松屋がまだ神田今川橋時代のことであった。二人の若い男女が急ぎ足で松屋に駆けつける絵入りの広告で、今なら百貨店の特価売出しは毎度のことだが、当時としては珍しく、思い切った試みをするものだと誰しもかなり興味を惹《ひ》かれた。私もこの広告に惹きつけられてわざわざ松屋に出かけて行った。
 割引場に入って見ると押すな押すなの大盛況で、その二室とも身動きもならぬ有様だ。私はなるほどこんなものかと、すなわち割引というものに対する大衆の心理に驚き、混雑に押されて外に出たが、他の各室の至って閑散なことはまた私に別の驚きをさせた。
 帰途電車の中でも、私はバーゲンセールについて、色々と考えさせられた。
『私は今日の広告を見て行ったから三割引で買物が出来たが、前日松屋で買物をした客はどんな気持がするだろう、同じ品を今日の客より三割高く買わされたという感じをしないものだろうか。そう思ったらずいぶん腹も立つことだろう』
『バーゲンデーは一週間限りだが、八日目に行った客はどんた気持がするだろう』
『店の方から考えても、日を限っての廉売をして一時的に多数の客を吸収することは、能率的に見てもまた経済的にも決して策を得たものではない。どちらから考えても割引販売ということはすべきでない』
 私は電車の中でこう断定を下した。店に帰ると家でも一割引の計画中だ。もう一万枚の割引券は立派に出来上がって来ているのだ。しかし『まあせっかくここまで準備の出来たものだから、今度だけはやってもよかろう』ということは、私には出来ないことであった。『割引売出しは中止だ』とばかり、割引券を取り出してパン焼竈に投じ、早速煙にしてしまった。
 爾来三十年、私の信ずるところは少しも変らない。世間でどんなに特価販売が流行し、買手の心がどんなにそこへ動いて行っても、我が中村屋は割引を絶対にしない。どこまでも正価販売に一貫した経営で立っている。すなわちその正価というものが、中村屋では割引など仮初《かりそめ》にも出来ないほんとうの正価に据えられているのであって、この正価販売への精進こそは我が中村屋の生命である。
 当時店員の中に、山梨県出身の白砂という少年がいた。これは今は陸軍主計大佐相当官になっているが、松屋の支配人故内藤彦一氏の甥であったので、私は自分の意見をこの少年から内藤氏に伝えさせた。『バーゲン・セールは中止する方が得策でしょう』と。
 その後も松屋は年々これを繰り返し、バーゲン・セールは松屋の年中行事となっていたが、銀座進出と同時にこれを廃《や》めてしまった。内藤氏が私の忠言に耳を傾けたのかどうかは知らぬが、他の百貨店が競って特価廉売景品等に浮身をやつす中に、現在松屋だけが超然としているのを見ると、私はじつに会心の微笑を禁じ得ないのである。

 正価販売の話のついでに、私はもう一つこのことを言いたい。
 現在森永の定価十銭のキャラメルが八銭で売られ、明治の小型キャラメルが三箇十銭で売られているのは周知の事実だが、信用ある大会社の製品がこんなに売りくずされているのを見るのはまことに遺憾である。
 世間ではこれを単に小売店の馬鹿競争と見ているようだが、私に言わせれば両会社の責任である。会社自身が互いの競争意識に引きずられて、一時に多量の仕入れをする者には割戻し、福引、温泉案内などの景品を付ける。したがって必要以上に多量に仕入れた商品は、それだけ格安に捌《さば》くことが出来るのみでなく、終には投売りもするようになる。この順序が解っているから両会社も市中の乱売者を取り締ることが出来ない。森永も明治も市内目抜きの場所にそれぞれ堂々たる構えで売店を出しているが、喫茶の方は別として、ここに来て会社の製品を買う客の意外に少ないのは、この定価以下の崩し売りが会社自身の売店では出来ないからであって、会社自身の不見識な商策から直営店の繁昌が望まれないことは、皮肉といおうか笑止といおうか、会社でもたしかに困った問題であろう。
 かつて森永が独占的地位を占めていた大正の初め頃、某百貨店が森永の製品を定価の一割引で売り出したことがあった。その時森永ではただちにその百貨店に抗議して、全国幾十万の菓子店の迷惑であるとて譲らず、ついに商品の輸送を停止してしまったことがある。百貨店側では自分の方の利得を犠牲にして客に奉仕するのに製造会社の干渉は受けないという言い分であったが、さすがに権威ある森永は、そんな商業道徳を無視するものの手で我が製品を売ってもらおうとは思わぬ、絶対にお断りするといって、二年間も頑張り通したのであった。
 ちょうどその頃、佐久間ドロップで会社が設立されて、製品が宜《よろ》しかったので私の店でも取引し、販売に尽力した。ところがある日お客から意外な叱言を受けた。
『このドロップは○○(森永製品の輸送を中止された店)では一斤四十銭で売っているのに、貴店で五十銭取るとは怪しからぬ』
 調べて見ると仕入原価が四十二銭、五十銭の売価は不当ではないのだが、他に同じ製品を四十銭で売る店があるとは不思議なことであった。そこで○○百貨店を調べるとまさしく四十銭に違いない。問屋に照会したところ問屋の仕入原価が四十銭、問屋も驚いて会社に厳談に及ぶと、会社の言い分は、
『○○百貨店は毎日六百缶(七斤入り)を現金取引ですから、特別待遇です』
 これでは商業道徳も何もあったものではない。私はただちに佐久間ドロップの販売を中止した。問屋も会社との取引を拒絶した。ここまで来ると会社もさすがにその非を覚ったのであろう、○○百貨店の安売りも間もなく中止されたのであった。
 さてまた森永のことにかえるが、社長森永氏が中村屋を訪問せられた際、私は二十年前、氏が某百貨店に示された毅然たる態度を称賛し、お互いに商売はかくありたいものだというと、氏は憮然として、『その後同業者もいくつか出来まして、競争と自衛上から、今日では売りくずし販売も前のように強くは抑えることが出来なくなりました』と答えられた。そこに自ずから会社の苦心も窺《うかが》われるのであるが、景品付き販売や温泉招待や、や
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