空車は必ず我々の検査を受ける規則になっている、無断の通行はならんよ』そう言って私を呼び止めた門番氏は、次には声をやわらげて愛想笑いさえ見せて『どうだね、中村屋は有名だから、職工らも今日から良いパンを食べられて喜ぶだろうな。ところで君の店には鷲印ミルクはあるかネ、明朝一ダースだけ頼む、家内がお産をして乳不足で困っているから、忘れずに』
私は門番氏の月給はいくらか知らなかったが、鷲印ミルクとはちょっと解し難いことであった。当時鷲印ミルクは舶来の最上品であって一個三十銭(今日の一円二十銭見当)の高価で、なかなか贅沢品と見られていたものである。
翌朝、私は試みに一缶だけ持参すると、彼はすこぶる不興気に声をあららげて『君、一ダースの註文だよ、たった一缶とは不都合じゃないか』私もそこで当意即妙に、『私は毎日来るのだから、新しいの新しいのと届ける方がよいでしょう。ところで代価ですが、私の方は現金主義ですから三十銭頂戴しましょう』
彼は代価は明日残り十一個分と引換えに渡す、という。私は前の代金を払われぬうちは残りを持参せぬというわけで、次の日から毎日この三十銭を請求した。彼が別の門に出ている日は
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