経済を知るにはその基礎たる牧畜の知識を切要したからである。
もう一つの幸いは、ウルスス君が私の所に来て以来、修道院製造のバター、チーズ、タニヨール、果物漬などを中村屋が取扱って全国に配布することになった。
四囲の刺激に一段の飛躍
三越が新宿に進出し、現在の二幸のところに支店を開いたのは大正十五年十月であった。まだその頃の新宿は新開の発展地とはいえ、これといって目に立つほどの商店もなかったから、三越支店の出現が、新宿一帯の地に与えた刺激は大きかった。地元の商店で多少ともその打撃を受けないものはなかったが、中村屋(当時売上げ月二万円程度)でも、月額千円に上った商品切手が全く出なくなり、その他の売上げにおいておよそ二千円を減じ、合わせて三千円の激減を見た。これらの客はすべて三越に吸収されたものであった。
私は考えた。鳥なき里の蝙蝠《こうもり》という譬《たとえ》があるが、三越という大きな鳥が出現して中村屋がただちにこの打撃を被るのは、やはり中村屋の商売にまだ一人前として足らぬところがあるからである。これは大いに反省し環境に従って一段の飛躍を遂げるのでなかったら、せっかく独自の位置を築いて来た中村屋が、今後百貨店のおこぼれを頂戴する悲運に陥らぬとも限らぬ。これは一刻も猶予ならぬ、奮起するはこの時であると。
私はこの難関突破の決意をもって、翌昭和二年一月、幹部会を開いた。ところが幹部めいめいの感ずるところもほとんど同じであって、誰一人弱音を吐くものはない。
『我々が多年努力して今日の繁栄を築いた新宿です。相手がどれほどの大資本であろうと、飛入り者の後について行けるものですか。御主人にもどうかこの辺御決心を願いたい』と、これが期せずして一致した意見であった。私も胸中を打ちあけ、一同に対策を諮《はか》ったところ、店員側は何よりもまず閉店時間を、これまでより二時間延長し、日曜日も平日の時間通り営業することを希望した。
それまで中村屋は平日午後七時閉店、日曜大祭日は五時閉店のきまりであった。夏の夕の五時以後は盛り場の新宿のことで、優に半日分以上の売上げがある。私はそれを承知していたが、世間の人が一週に一度の日曜日を楽しんでいる時に、我が店員は平日よりもいっそう多忙に過ごすのである。せめて夜だけでもゆっくりさせてやりたいものだと考え、得意への御不便を察して恐縮しながらも、五時閉店を固守して来たのであった。
それを今度は店員一同、店のために進んで時間延長を希望し、日曜祭日の夜の僅かな余裕も犠牲にしようというのである。私はこの一同の案を容れるとともに、七時以後の時間を甲乙二班に分って隔日交替とし、この時間における売上げの五分を、その日の当直店員に特別手当として支給することに決めた。
次に、各工場の職長に日本一の技術者を招聘《しょうへい》したいという私のかねての宿望を実現することになり、二月初旬には日本菓子部に荒井公平、洋菓子部に高相鉄蔵、食パン部に石崎元次郎の三君の入店を見ることが出来た。喫茶部の開設を決定したのもこの時であった。これで中村屋の陣容はやや整い、目前の不利な形勢に対しても、これならば恐るるに足らぬという自信を持つことが出来たのである。店員一同の奮闘もまためざましかった。果たして形勢|幾許《いくばく》もなくして回復し、その後売上げは急激な勢いをもって増大した。
翌三年三月、私は欧州視察の旅に上ったが、ちょうど船が台湾沖にさしかかった時、私に無線電信が入った。私は妻が病床にあるところを発って来て、絶えずそのことが気にかかっていたから、電報ときいてぎょっとしたが、恐る恐る開いて見るとそれは店から打ったもので、「売上げ二千円を突破す」という吉報であった。
そういうふうで、昭和三年は中村屋の素晴しい躍進を記録した年で、その売上げは三越支店開設当時に比し、優に二倍を超過した。この意味において三越の新宿進出は、中村屋を一人前に育ててくれたものとして大いに感謝に値するのである。
純印度式のカリー・ライス
中村屋の喫茶部開設については、その二、三年前からすでに気運が動いていた。今日でこそ新宿には多くの喫茶店が軒をならべ、各々その特色を発揮して景況いよいよ盛んだが、昭和二年にはまだ喫茶店らしいものは一軒も見当らなかったのである。しかし土地が次第に賑やかさを加えるにつれ、自然茶をのむところの必要も感じられ、中村屋のお得意からもちょっとした小休み程度の喫茶部を設けてほしいがという希望はたびたび出ていた。
しかし私は、喫茶のような丁寧なお客扱いは容易に出来るものでないからと独りぎめにきめて、それまで手をつけなかったのであるが、婿のボースが、彼の祖国印度に対する日本人の認識の誤りがちなのを歎き、中村屋で喫茶部をおくならば
前へ
次へ
全59ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング