を一転機として店の売上げがたちまち三、四割方の増加となったのには驚かされた。後で耳に入ったところによれば、多くの店が幾割かの値上げをした際に、私の方が平常よりも勉強したことが特に目立ち、中村屋に好感を持って下さる方がふえたのだということで、私はまたここに天祐の上の天祐を感じ、罹災してついに立てなくなった人も多い中に何というもったいないことであろうと思った。
 それゆえこの大震災は、中村屋にとっては重々記念すべきであって、毎年九月一日には震災記念販売をし、当時の店員一同の働きをしのび、その三品をそのままの形で出して原価販売をする慣例となった。すなわち震災記念販売は中村屋の年中行事の一つとなり、お得意でも当時を思い出して、当日は特にわざわざ店を訪ねて下さる方が多く、それらのお客様としても記念販売の三品は、一種異なる愛着をもって年々変りなく迎えられている次第である。

    ウルスス氏と中村屋牧場

 ある日、西郷隆盛然たる一壮夫が私を訪ねて来た。大正十五年春のことである。
『私は北海道のトラピスト修道院に教頭をつとめて居りましたが、教義上のことで羅馬《ローマ》法王と争い、破門されて本日上京致しました。他に身寄りもありませんからなにぶん宜しくお願いいたします』
 紹介者もなく前触れもない全く突然の訪問であったが、我々には何となくこの仁が面白く思われ、一つにはかねてひそかに関心を持っているトラピスト修道院にいたというのにも心惹かれて、それ以来彼和田武夫氏は我が家の客となった。
 妻は彼を綽名してウルスス君と呼んでいた。ウルススとはシエンキエイッチ作「何処に行く」の中に出て来る巨人で、暴帝ネロの眼前で猛牛を圧殺して姫君を救うというその面影に彼が似ているというのであった。
 私はウルスス君を眺めていろいろ考えたが、菓子屋の中村屋にはこんな巨人に向く仕事がない。彼も自発的に巡査を志願して試験を受けに行った。どういうことを試験されたかと訊くと、
『富士山の高さは何程あるかと訊かれましたから、私は登ったことがないから知りませんと申しました。それから、泥棒を捕えた時はいかにすべきかと言いますから、私は、泥棒には将来を戒めて逃がしてやります、世間には泥棒などより悪いことをする奴がたくさんあります、その奴らを捕えないうちは小泥棒などは許してやるべきだと答えて来ました』
 これではもう落第に決まっていた。そこで、
『君は宗教のこと以外に、世間の仕事を何か知っているか』
 と聞いて見ると、彼は修道院において、ジョアンという世界的農学者(現在オランダの農科大学長をしている)から牧畜のことを学びましたということであった。
 ちょうどその頃、私は四男の文雄を南米ブラジルにやって、そこで彼の新天地を開拓させようと考えて、文雄もこのことを喜び、南米行の予備教育を受けるために、日本力行会(故島貫氏創立)の海外学校に在学中であった。そこで私が考えるのに、海外に移民する日本人が牧畜の知識を持っておらぬのが最大の欠点で、これがあれば彼地での発展に大いに役立つであろうと思われた。すなわち当時の力行会長永田氏にこのことを話し、乳牛持参の牧畜教師を雇ってくれますかというと、永田氏も大いに歓迎するということであった。私は早速七百五十円の乳牛一頭を買い、校庭に牧舎とウルスス君の住宅とを新築して、彼を学校に送った。
 ところが僅か二ヶ月で、海外学校にウルスス君を中心として事件が起った。何しろ羅馬法王と争うほどの熱血漢ウルススのことで、たちまち血気の学生の共鳴するところとなり、一にも和田、二にも和田で学校職員の手にあまり、今一歩で騒動が勃発するという報告に接した。私は困った。どうもそういう学校騒動のたまごを持ち込んだのでは、会長に対しても全く相済まぬことであった。そこで牧舎と住宅とはそのまま学校に寄付して、彼に牛を曳いて帰って来いと命じた。
 すると大きな体のウルスス君が牛を曳いてノッソリと帰って来たが、特別大きなこの二つの存在には、第一入れる場所からして無い。私も全く当惑した。ことここに至れば完全な牧場を設けて、この両者を活かすよりほかなしと決意した。
 そこで獣医学校の大槻雅得氏に設計を託し、三井家の牧場をも参酌して、きわめて小規模ながら牧場を自営することとなった。すなわちこれが仙川にある中村屋牧場である。
 この牧場はこんなわけで出来たが、今日では最も優良なる生乳と生クリームとを供給し、中村屋にとり、なくてならぬ存在となった。窮余の一策としてやむにやまれず設けたものが今日これだ。人間万事塞翁が何とやら、うまいことを言ったものだと思う。
 また私はこの牧場経営で、二年ほど苦労したが、その後欧州視察の旅で、この知識がたいへん役に立ち、あちらの農業視察に大いに便宜になった。欧州の農業
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