、隣地角筈一番地を当時の地主武井守正氏に一坪十円で交渉を進めたが、武井氏は二十円を主張して譲らなかった。鉄道省側は、十年前坪二円であったものを二十円とは強欲過ぎると反感を起し、急に計画を変えて今の甲州街道の高い不便な場所を買った。ところがその後十年にもならぬうちに新宿駅はまたも拡張を余儀なくされ、以前二十円といわれて交渉成立しなかった地を、今度は同じ武井氏から八十円で買い取ったという話である。
それから中村屋の西隣りに育英堂という新聞配達店があったが、借財整理のために、土地二百九十坪家屋つきで三万五千円で売りたいといい、私に交渉があった。私も新宿には大いに希望を持っていたから、買い入れる心組みで、まず中村屋の地主渡辺氏に相談した。渡辺氏は地主である上に早稲田関係の先輩でもあってかねて懇意にしており、また内々隣りの地に野心のあることも解っていたから、それを出し抜いて独りで買うということは私には出来なかったのである。
すると渡辺氏はすでにこの土地に一万三千円貸し付けて居り、中村屋の土地とそれとを併せて五百五十坪の一画にすることをかねてより楽しみにしていたということで、この土地はぜひこちらに譲ってもらいたいと言う。そこで私も氏の懇望にまかせ、交渉をよして見ていた。
ところが渡辺氏はこの土地の価格を二万五、六千円と踏んでそれより出そうとしなかったので、交渉成立せず、とうとう高野果物店の手に入ってしまった。高野氏はこの時停車場の拡張で立退きを命ぜられて行き場に困っていた折柄なので、一方の交渉が破れるやただちに言い値の三万五千円で買い取ったのであった。こんなわけでいったん私の門前まで来たこの幸運は高野氏へまわったのである。しかし私にはぜひこれがなくてはならぬというのではなかったから、必要に迫られた高野氏の方へまわったのが自然で、大いに結構であったと思う。この時大正七年であったが、それから二十年経った今日では、三万五千円が三十倍以上の価格に上がり、驚くべき莫大なものとなった。
この直後の大正八年、現在の三越支店の所に郵便局があったが、これが移転することになって、その跡百六十坪の権利が売りに出た。これは私が友人務台氏に勧めて五千円で買わせておいたが、その後活動写真武蔵野館の発起者が一万八千円で務台氏から譲り受け、ただちに倍額の三万六千円で会社に提供した。その後十余年を経て昭和六年に三越が十倍の三十五万円で買い受け、そこに現在の支店が建設されたのである。
賃餅の予約と新兵衛餅
新宿に移って二年目、現在の場所を手に入れた私は、裏の空地に製造場も出来たので、これまではパン一式であったが、ここで一つ日本菓子の製造を始めようと思い立った。パンだけでは商いがあまりに細く、夏忙しい代りに冬閑散で、早くいえば商売にむらがある。そこでパンとは反対に、冬忙しく夏閑散な日本菓子を持って来て、互いに長短相補おうというのであって、これが具合よく行けば中村屋の経営は初めて合理化するのであった。
しかし日本菓子は私にとり未経験であると同時に、お得意の方でもパン屋が急に日本菓子を売り出して買って頂けるものかどうか、これは少し難かしい問題であった。
で、何とか一工夫して中村屋の新たに製造して売り出す日本菓子は、特に材料を精選した優良品であるということを、お得意に知ってもらわなくてはならぬと思い、そこで思いついたのが歳末の賃餅であった。上等の餅を勉強して売り出せば、それが機縁になって日本菓子のお得意が得られる。私はこう思うたので、餅米はどんなものを選ぶべきか、幸いこれには米穀研究の権威者と称された畑中吉五郎氏が私の親戚であったから、早速氏を訪ねて相談した。すると畑中氏は、
『今日東京で餅を売るといって、ただの上餅では、たとえ原価で売ったところが、第一流の客を引くことは出来ないであろう。そこでこれは大奮発だが、旧幕時代将軍家御用となっていた新兵衛餅というのがある。これならばたしかに天下一品、こういう餅を賃餅にして売り出したら、君の思いつきはたしかに成功するであろう』
といって、その新兵衛餅について教えてくれた。私は氏の説に従い、すぐに産地に行って新兵衛餅百俵を買い入れ、その売渡し証を取って帰り、これを写真に撮って広告に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入し、往昔徳川将軍家御用であった天下一品の新兵衛餅百俵を、表記買入れの実費をもって予約販売致します。但し予約期限は十二月十五日限り、それ以後は時の相場通り値上げする旨を発表した。
この計画は大成功でした。十五日までに百俵の餅は全部予約済みとなり、約六百軒のお得意を得ることが出来た。そして畑中氏の説に違わず、この新兵衛餅は探しても他では得られぬ最上等の餅であったから、
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