れなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。――(「黙移」)
[#ここで字下げ終わり]

 ここにもある通り、その時浅野はお得意の最も集中した千駄ヶ谷を主として、今の代々木駅付近を希望したので、我々は浅野につれられてそちらから初めに見てまわり、新宿の方へ出たのであった。いかにも千駄ヶ谷は屋敷町で得意の数は多かったが、私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、すなわち新宿終点に眼をつけたのである。ちょうどそこに二間まぐち、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、早速その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
 この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、日の出屋になっている。
 さていよいよ支店を出す段になって、全く予期せぬことが起った。それはこの支店を預って大いに働いてくれる筈であった浅野が、突然郷里に呼びかえされてしまったことで、彼もここまで運んで来ながら心残りであったろうし、私もせっかく着手する仕事にちょっと中心を失ったかたちであった。やむを得ず他の店員を留守番としてそこにおき、妻が毎日本郷から出張することにして開店した。明治四十年の十二月十五日であった。するとその開店第一日の売上げが、すでに六年間辛苦して築き上げた本郷本店の売上高を凌駕した。この一事でも、新宿という土地の将来伸びる勢いが早くもはっきりとうかがわれるのであった。
 しかし当時の新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒《すさ》んだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
 さて支店は売上げが日に日に向上し、将来有望と見極めがついて来るとともに、今度は店の狭さが問題になって来た。何しろ奥行は二間半にすぎず、裏に余裕がないので製造場を設けることが出来ない。どうかも少し広い所へ移りたいものと考えていると、私が前から関係していた蚕業会社の桑苗部主任の桑原宏という老人がひょっこり見えて、ちょうど近所に売家があるが買わないかという話で、渡りに舟と私は早速その所有主真上正房氏に会い、交渉すること僅か十五分間で、建物四棟と借地二百六十坪の権利を三千八百円で買約した。それがすなわち現在中村屋の地で、今日から見ればこれを手に入れたことは全く得難き幸いであった。明治四十二年春のことであった。
 さていささか余談にわたるが、私が新宿に来たこの前後数年間が、あの辺の地価権利などの変動の最も激しかった時で、新宿変遷史の一端ともなるであろうから、少しその当時の状況を述べておこう。
 私に今の場所を売ってくれた真上氏は、それより三年前にこれを他から五百五十円で買い取ったものであった。それを私は三千八百円で譲り受けたのであるから、この土地は三年間に七倍となったわけで、当時の田舎くさい新宿にじつはもうこれだけの景気が動いていたのである。さらにこの三千八百円の場所は三十年後の今日、地上権一坪平均千円として二十六万円、すなわち七十倍という躍進ぶりである。
 また同じ真上氏は現在住友銀行支店となっている場所を、三十八年に一坪十円で買ったところ、五ヶ月後には十五円で売れた。さらに一ヶ月後にはこの十五円の地を浅田という人が三十円で買った。これなどは僅か六ヶ月の間に三倍となったのである。この浅田氏の浅田銀行が代って現在の住友銀行になった。
 また私が最初権利なしで二十八円の家賃で借りた家から現在のところへ移ることが知れると、六百円くらいの権利金なら出すからという希望者がたくさん現れた。しかし私は缶詰の知識を私に与えてくれた豊田氏の御子息が、その希望者の一人であったので、一ヶ年半の間に私が家主に支払った家賃の四百二十円でこの人に譲った。つまり一ヶ年半を無家賃で住んだことになったのである。
 しかしまさか新宿が今のようになろうとは誰しも予測し得なかったから、ある友人などは私が三千八百円という大金をこんな場末に投げ出すくらいなら、四谷の方に相当の所があるではないか、こんな所はよせと言って忠告したもので、実際その時分は四谷塩町付近が山の手銀座と称されて、市内屈指の繁栄地であった。幸いにして私の見込は違わなかったが、いろいろこうして思い出して見ると、じつに今昔の感が深い。
 新宿駅は明治四十年にはまだ今の西武電車の発着所の所にあって、やっと四間に八間くらいの至って貧弱なものであった。それが急に拡張することになって
前へ 次へ
全59ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング