り、どの商店もその近傍を得意として、古い取引の上に安定していた。
 ところが明治の末期になると電車が敷かれ電話がかかり、自転車は普及し、便利になったと思っていると今度は自動車、そのうちバスも行き渡って、その結果は今のように得意の範囲が拡がり、相当の店なれば市内一帯はもちろん郊外にも多くの客を持つ有様となり、また地方とは通信による商いもなかなか盛んになって来たのである。
 さてこうなると店員のために主家ののれん[#「のれん」に傍点]を分けることは甚だ困難で、また分けて見ても分け甲斐のないものになった。昔は本店まで行けないから支店で買い、お互いにそれが便利であったのだが、今のように交通が発達し、その機関を利用しての外出は苦労ではなく、遠方の買物もかえって一つの興味となった。支店を出しても支店の前は通り越して、やはり直接本店に行って買う。これでは支店の立ち行く筈はないのである。
 ことに昔は一軒の店を持つのも容易であった。店飾りなどもごく簡単で、もちろん借家に権利金もなかった。我々が本郷で中村屋を譲り受けた時なども、製造場その他いっさい付いている店が僅か七百円であった。それが今日はちょっと見込のある所は権利金だけでも数千円で、現に新宿目ぬきの場所は、間口一間当りの権利金が一万五千円から二万円という驚くべき高価に上がり、その他どこに行っても新たに店を持つことは昔よりはるかに困難となったのである。また一方には幾千万円の大資本を擁する百貨店が出現し、これが郊外遠くまでも配達網を布いての活躍で、小商店に一大脅威を与えており、これと戦って敗けずに行くには余程の覚悟を要するのである。
 また昔は僅々数十円の小資本でも、機に乗じ才智によって成功した例もあったが、今より後はかかる僥倖は望むべきでなく、何事も合理的方法によるほかない。
 それゆえ諸君は仮りにも夢を見てはならないのであって、奉公先を一生の親柱と頼み、すがってさえいれば何とかなるという時代ではないことをしっかり自覚し、そこに真剣な修業の覚悟が必要である。とにかく私として諸君に望むところは、諸君が我が中村屋を商業研究の道場と心得、仕入れ、製造、販売の研究はもちろん、朋輩に交じわる道、長上に対するの礼、人の上に立つ心得等に至るまで、充分に習得して真に一店の主人、一製造場の長たり得る資格を備え、いかなる苦境も自力で開いていくだけの人間修業をして欲しいのである。その上に事業に対する熱意があるならば、志は必ず酬いられねばならない。
 以上私はのれん[#「のれん」に傍点]分けの困難な理由、今の商売の容易でないことのみを述べたが、一方また現代は多くの新しい仕事と働き場所をもって諸君の進出を待っているのである。徳川時代三百年間に、日本の人口はおよそ二千五百万人から三千万人に増加したのみであるという。それが維新以来今日まで僅か七十年の間に三千万人の人口は七千万人に上り、しかもこれは内地在住の者のみを数えたのであって、この他に海外に出て大いに発展している同胞のあることを思えば、我々は何という勢い盛んな時代に生れたものであろう。そうして新時代の文化の複雑さはどれほど我々を恵み、我々の仕事をふやしていてくれるか知れない。のれん[#「のれん」に傍点]分けの望みこそ失せても、独自の道は開けている。諸君はこの新時代の新人として世に立つべく、大いに勇往|邁進《まいしん》すべきである。研究を怠り、また己を鍛えることを忘れて青春の時代を漫然と過ごした者は、やがて世間に出て落伍者とならねばならない。我々は諸君の大切な若き日に充分の自覚と正しき努力とを望み、中村屋が諸君の真によき道場とならんことを願うものである。

    店員のために学校設立

 日々忙しい労務に従う店員諸君のために充分な休日を与えることと、修養勉学の機関をつくることとは、私の長年の願いであった。しかもこの二つは何でもなく出来そうに見えて、じつはなかなか難かしく、今も休みは不充分であり、ことに勉学の方は近年まで全く手をつけることが出来ないでいたのである。ただ夜分だけは早く休息させたいと思い、平日は午後七時閉店、日曜大祭日は特に忙しいことであるから五時閉店として、本郷から新宿に移転以来ずっとこれを実行して来たのであるが、その後新宿の盛り場としての発展と、別に述べたような百貨店の進出による事情などで、やむを得ず営業時間を九時までと改め、さらに十時まで延長、そこで三部制(販売部)を取ることになって、現在のように朝七時出は午後五時まで、九時出は七時まで、正午出は十時までの受持とし、各十時間勤務と改めたのであった。また月二回の全員定休日のほかに、交替でさらに月一回の休みをつくり、これでやや改善されたが、毎年四月、十二月などのとりわけ忙しい月はまだまだ過労の様子が見られ
前へ 次へ
全59ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 黒光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング