、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために、自分はぜひ印度のカリー・ライスを紹介したい、現在世間でライス・カレーと称して行われているものは、もとは印度から出て世界中に拡まったものだが、日本では次第に安い材料を用いるようになり、今では経済料理の一種としてひどく下等になっている。印度貴族の食するカリー・ライスは決してあんなものではない。肉は最上級の鶏肉を用いるのであるし、最上のバターと十数種の香料を加え、米もまた優良品を選んですべて充分の選択の上に調えられる最上の美味である。と熱心に喫茶部開設の希望をした。ボースはすでにその妻を失っていたが、その亡妻俊子は私の長女であった。英国政府の迫害の中にある印度志士の彼に嫁した俊子は心労の果てに若死したが、それ以来印度というものに対する我々が親愛の情もまたひとしおに深いわけであって、ボースの印度料理案が出るに及んで心動き、ちょうど店の新計画と一致して、いよいよ昭和二年六月喫茶部開設となり、同時に印度式カリー・ライスを公開したのである。
 果たして純印度式カリー・ライスは、洗練された味覚を持つ人々によろこび迎えられ、現在いよいよ好評であるが、純印度式であるとともに我々日本人の口にあうように、またその最上の美味を出すためには、一通りならず苦心した。まず問題は米であった。カリーに用いる米はカリーの汁をかけるとすうっと綺麗に平均して、よく浸み透るのでなくてはならない。初めは本場の印度から取り寄せて見たが、一斤(約三合)五十銭につき、見た眼にはじつに美事であったが、その味は日本人に向かなかった。
 そこで、先に新兵衛餅を教えてもらった畑中氏をまたまた煩わすと、氏はカリーに最も適当する白目という米のあることを教えてくれた。
『維新前、江戸は美食を競うところであって、ことに各藩の勘定方など、価の高下を問わず美味三昧を誇りとしたものであるが、この人たちは好んでこの白目米を用い、また一流の鳥料理、鰻屋にはぜひともなくてならぬ米であったから、他の一等米に比しておよそ三割方の高価であったが、毎年三千俵の売行きがあったものだ。維新とともにそういう微妙な舌の持主は落魄し、にわかに粗野な地方人の天下となったのであるから、爾来白目米を味わい分ける者もなく、今日では僅かに当時の百分の一くらいが用いられるだけで、それすら年々減少する傾あり、この珍品白目米も遠か
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