は神仏の前あるいは崇高な人格者に相対する時、自ずとそこに額づき、挙動をつつしみ、言葉も自ずから改まります。その通り私どもの商売に好意を寄せて下さるお客様に対しては、尊敬の念が湧き、感謝の心を起し、自ずから丁重に接するようになる筈です。いうまでもなくよい菓子を拵えて満足してもらいたいと思い、包み紙一つにも心して、よい感じを贈りたいと自ずといろいろ工夫するものです。ましてしばらくの憩いの場所となるお茶のテーブルに、皿の形さえあればよい、腰掛けの用にさえ足ればよいとは考えられない。またこの思いはあなた方店の人たちに対しても同様です。こういう私どもの心持が一つの表現となって製品と化し、食器となり、家具その他いっさいの内容外観をつくるのであります。この生きることだに容易でない世に自分の才分にもない油絵、彫刻、書画をもって店を荘厳することは過ぎたるわざかも知れないけれど、お客様も私どももあなた方もけわしい人生の行路を辿る間に、お互いの触れ合う僅かの機会をも空しくせず、芸術を通してしみじみ生けるいのちのよろこびを感じ、天のはかり知れざる恩恵を謝し、共にその魂の浄化せられんことを願うものであって、神も仏も必ずやゆるし給うことと信じます。
 しかしこれとて度を越す時は、道楽と虚栄に堕する危険があります。かえりみて警戒すべきことです。

 また年に一、二回の観劇会と相撲見物、その時あなた方は古参新参の別なく、みなが一等の席に坐り、上等の弁当を提供される。ある人これを見て、『店員に一等席は贅沢すぎる、二等でたくさんだ』と苦々しげに云いました。この人は私たちの精神を全然理解していないのでした。敬意をもって対するのにお客様であると店員であるとの差はない筈です。おとくいを大切にし、その人格を重んずるものが、家族の一員である店員を軽視し無視していいものであろうか。あなた方が勝手に芝居見物する時は、二等であろうが三等四等いずれにしようと自由だけれど、いやしくも主人が店員を招待するに店員はどこでもいいなどとはもってのほか、招待には招待の礼儀があります。ことに店員は年中人様にサーヴィスして上げて、自分たちがそれを受ける場合はないのです。せめて芝居見物の時だけでも、のびのびとして、楽しみを人と共に享《う》けねばならない。
 それからやはり年に二、三回、第一流の料理店で食事を共にします。ある時は西洋料理、
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