奉仕です」というかも知れぬが、損したり原価販売をして経営の成立つわけがない。必ず何かの点で、この埋合せをしているのである。つまり損して売るということは、結局その欠損を他の客へ肩代りさせているものである。
 かくの如き営業振りは、大道商人と何ら選ぶところがないのである。
 百貨店がこの有様であるから、多くの小売店も、対抗上やはりこの不堅実な営業振りを真似することになる。これでは正札の真価は失われてしまう。せっかく確立した商道を紊だすことは、日本の商人道の破壊である。実に慨嘆に堪えない次第である。

    小売店独特の戦術

 今までは一流百貨店では、特価品なるものはあまり取扱わなかった。特価品はすなわち「安かろう悪かろう」の品であるから、信用上取扱えなかったのである。
 しかるに今日では中等店で売るを潔しとせぬような品まで取扱っている。そして大衆的営業振りだと称している。
 特価品を取扱わなかったがために、在来は百貨店に対して、さほど小商店は痛痒を感じなかったのである。ところが右の如き大衆的営業振りを始めたので、小商店は初めて目をみはりながら狼狽し出した。どんどん得意先を百貨店に奪われて行くため、対抗策として品質を低下せしめて、一層安値で売ろうとする。品も同様、値も同様というのでは、種々の設備の行届いた百貨店へ足の向くのが普通である。競争したくも競争にならぬ。百貨店に一歩先んじられた事を真似して、それで対抗したつもりでいる。笑止千万な話である。これは小商店が研究心に乏しいことの明らかな証明となる。
 百貨店では、調査研究を常に怠らずやっている。小商店ではこれをせぬ向きが多い。負け戦となるのは自明の理であろう。小商店には小商店独特の戦術がなくてはならぬ。それは何か。
 一つは無駄な経費を絶対に省くこと。二つには働く人の能率を挙げることである。能率を挙げるということは、毎日の能率を平均せしめることである。昨日は忙しかったが、今は閑だというのでは不可ぬ。能率が平均していると、すべての部分が順序よく運び店内の空気にちょっとの隙も生じない。
 も少し事実において言って見ると、特売デーは目のまわるように忙しいが、平日は閑で困るというのでは、気が引立たぬ上に嫌気がさして来よう。このやり方では差引特売デーだけの経費が無駄になる訳である。これがなかなか至難のことであるから能率を平均せしめることが出来ればその店は必ず栄えるのだが、店頭にボンヤリ客を待ちながら、欠伸《あくび》を噛殺しているようなことではとうていそれは望まれぬ。

    小売店更生の方法

 米国では第一次欧州大戦後、連鎖店《チェーンストア》が非常に発展した。そして当時では連鎖店がむしろ百貨店を圧迫しているくらいである。ゆえに百貨店も連合してこれに対抗している状態だ。連鎖店といっても日本に現在見る如きものとは異り、すこぶる大仕掛のもので、さればこそ客の吸引力において、百貨店を恐れしめたのである。
 先に述べた無駄な経費を絶対に省くこと、人の能率を挙げること、こうして毎日の能率を平均せしめること、これを事実において示しているのが彼の地の連鎖店である。百貨店では、人件費、広告費等が売上げの三割を超えているが、連鎖店では二割二分で済む。このひらきだけ連鎖店の方が百貨店よりも同じ品を安く売ることが出来る。安く売ることが出来て、しかも利益率が多いのであるから、客も喜び、店も栄える、すなわち一挙両得とはこの事だ。
 連鎖店は至るところに開店出来る上に、配達員を要せぬ。建物も二階以上は使用せぬゆえ、エレベーターやエスカレーターの費用が省ける。また特売や出張販売をせぬからこの点の費用も要らぬ、大百貨店と立派に対抗して、しかも彼をキュウキュウ云わせることの出来る所以である。この点は我が国の小商店の学ぶべき事である。この点を学ばずして、百貨店の戦略を真似て新人顔をするなど愚の至りである。
 米国の連鎖店が今日の隆盛をもたらした原因は、要するに百貨店その物を十分に調査研究した上で、しかも彼を真似ず、独特の経営法を案出した点に存するのである。ゆえに我が国の小商店でも彼を真似ず、独特の経営法を案出すべきである。米国の連鎖店が良いからといって、いたずらにその形式を真似せず、その方針、経営法の根本を学ぶべきである。かくすることによって、没落の恐怖に怯えている我が小商店の更生の道を見出すことが出来るであろう。

    百貨店の先手を打て

 百貨店が安い品を売るから、此方も品質を落して安い品を売るという式では、結局お得意を失うのみである。お得意は失いたくないと言って東京のまん中なら神田の炭屋が、三里も距った郊外の笹塚から注文があったからとて配達費自前で届けるのをもって勉強と心得るのは、間違ったやり方である。遠い所は他の店に譲り、近い所に全力を集中するのが悧巧な方法で、人件費配達費を考えたら、遠方配達は到底出来ぬことである。
 小売店が百貨店と対抗して商売するには、米国の連鎖店がしたように、百貨店の品を隅々までも精細に調査研究した上で、各店が連合協力して、一店毎に瀬戸物なら例えば火鉢、洋品店ならメリヤス襯衣という風に、二三種を各々奉仕販売するのも一方法である。品の種類は時季に応じて取りかえて行く。
 これを実行するには目先を利かせて機敏に、絶えず百貨店の先手を打って行くようにせねばならぬ。客の方では何日何商店に、何日どこそこの店に行けば百貨店と同じ品で、しかも値が安いというので、わざわざ電車に乗ってまで百貨店に行かずに済むから便利である。大資本、大量仕入の百貨店と対抗するには、品質を落さないこと、各商店が気を揃えて協力することが大切で一人や二人では相撲は取れぬ。
 次に、広告宣伝の方法は、「何日特売デー」「何日粗景呈上」「勉強の親玉」等と、抽象的な平凡な文句を書いても効能は少ない。
 何処の店のチラシも皆な同様な文句をならべたのでは、いっこうに魅力を感ぜぬ。こんな消極的なきまり文句では少し心あるものには、その店主の脳味噌の程が思いやられて、足を向ける気がしない。
 百貨店では広告の文句、宣伝の方法を真剣に研究している。小商店では出たとこ勝負のやっていけ[#「やっていけ」に傍点]で、甚しいのになると、他店の文句をそのまま真似たのさえある。滑稽きわまる話で、何のための広告か真意の程を理解するのに苦しむ。その店には必ず独自の特色、個性があるべきで、他店にない特色、個性があってこそ初めてその店は生きてくる。
 客が足を向けることを誇りとする店、かかる店であれば、不景気など素通りしてしまう。「あの店でチンドン屋を雇ったから俺の店も雇おう」ではいけない。
 そこで各店が連合して、一店一種ないし二種の犠牲奉仕品を出すには、広告チラシも共同の物を作る。そうすれば費用も少額で足りる。文句も「お安く致します」だけでなく、何印の何品は何程と書き、百貨店の売価と対照した表を作って、一目で百貨店より二銭なり三銭なり安いことを知らしめるようにする。
 要するに大多数の小売店が、百貨店の進出によって、不利なる立場に追い詰められつつあるのは、産業界経済界の不況にも因る事だが、研究心の不足が大なる原因である。百貨店は万事が積極的であるに対し、小商店は消極的である。これを例えるならば、百貨店は大英帝国であり、小売店はあたかも印度の如しとも言えるのである。
 しかし印度にもガンジーの如き英雄があって、なお特別の戦術により、不撓不屈の運動をなして居る。ガンジーの例はやや当を失する嫌いなきにあらざるも、その不撓不屈の精神のみは、我が小商店に良き教訓を垂れると考えてもあえて不当ではあるまい。

    商売は地味にやるべし

 家賃(一ヶ月)は一日の売上げ程度に止むべきだと思います。すなわち一ヶ月売上げの三十分の一つまり売価の三分三厘ということになりますが、百貨店では、だいたいこの標準でやってるようで、成績のいい店ほど、この割合を低減して行くものと見るべきであります。
 よく市内で見かけることですが、あそこの店の売上げはおよそこれこれと見当がつくのに、あれだけの場所であの店構えで、よくやっているなと思うような所は赤字である場合が多い。そうでなければ、その蔭には有力な出資者がいるとか、他に本収入があって、家賃稼ぎだけに店を出しているとか相当の仕掛があるので、もし地方から出て来たばかりのような人でこの辺の事情に暗い者が、それらの店を有望として譲り受けでもするならば、意外の結果を見て驚くほかはないでしょう。他に何ら収入のないもので、専らその商業によって生活を立てるという場合には、前記のように一ヶ月の家賃ぐらいを一日に売上げる方針が必要であります。だいたいこの計算によれば間違いはありません。

    販売の仕方

 私はお得意に対しては、親疎遠近の別なく、いっさい平等に売るべしと主張いたします。つまり正札厳守ということであって、期間を限ってやる特売とか旬末サービス、さては早朝三割奉仕とかいう商略等を絶対に排斥するものであります。
 何故いけないか。それは客の身になって考えて見れば判ることである。昨日自分が五円で買った帽子が、今日は同じ店で四円である、これはけしからぬときっと不満に思うに違いない。そしてこれだけはその時だけに止まると思われないで、なあにこの店は正札正札と威張っていても、時季を見てまた特売する時があるのだ、あるいは二流品を一流品のように見せかけて、高い値札をつけてあるから特売が出来るんだと、だんだんその店の信用を落して行くものであります。
 ゆえに、店の信用を高むるためには、正札主義をあくまで守り通すことが大切であります。

    広告費について

 広告は、自分の店の存在を明らかにし、店の特長を知って貰う上から非常に大切なものですが、しかしこれをあまり重要視しすぎて、その釣合を失い肝心の商品をして値上げまでしなくては立ち行かぬようでは考えものだと思います。薬九層倍といいますが、これは宣伝費が売価の大部分を占めているからであります。
 他の商品にあっては、よろしく限度をきめて、売価に影響せぬ程度が必要でありますから、総売上げの百分の一以下が適当ではないかと思います。米国のチェーンストアは百五十分の一となっておりますのに、米国の百貨店は三十分の一で、約八倍の広告費を支出するため、前者の方がそれだけ安く売れますから、百貨店はチェーンストアに得意を奪われているのであります。

    仕入のこと

 仕入は総て品質、値段、時季、産地等その間の事情をくわしく調査してかかることはもちろんでありますが、問屋を相手とする場合とても得意に対すると同様にこの方針で、誠の心をもって終始する心掛が必要だと思います。
 よく相手の足元につけこんで、徹底的に値切り倒し、あるいは些少の金利を目あてに支払いを延期するなど、これを称して商売のかけ引の上手のように教える人がありますが、これはとんでもない誤りであります。
 問屋荷主に不安や不快を与えるほど仕入の上に不得策はありません。またこの小策を要する商人は、決して大成するものではありません。

    正札附の人物たれ

 一個の商品に二様の価なく、いっさいの顧客に平等の待遇[#「待遇」は底本では「体遇」]を致すのが商道の極意であります。これが正札の原則で、目前の小利に眩惑して価を上下し、貴賤によって礼遇を差別するが如きは商売の堕落であって真の商人たる価値なき者であります。商品に良品廉価の確信があって初めて真実の価があり、真実の定価があってここに正札がある。品質に疑あるか価値において他の優越を恐るる如きことあれば、正札は真の正札ではない。終いにはその価を二三にせざるを得なくなる。
 ゆえに商人として其の誠実に忠ならんとするならば必ず商品は正札をしてすこしも上下してはならない。正札を守らんがためには最も合理化せる経営をしなくてはならない。
 而してこれらのすべてを完成せしむるには、まず自分として表裏反覆なき正札付
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