て忠実に働いていたが、ある時係長の一人が、会社内に山の如く堆積してあった皮革の積を調査すべく来た。しかるにこの新米の学生上りの労働者も進みより、方程式により計算せしを、その係長が見とがめて、汝もこの方程式を知って居ったか、それほど学問のあるものが、何故かかる労働に従事しているのであるかと怪しみ尋ねた。彼の労働者はすなわちありのままの事実をもってこれに答えた。ところがその係長は驚き且つ感心して、終に社長に謀りて、彼を労働者中より抜擢して而して破格の位置を与えて彼の敏腕を思う存分振わしめた。而してこの大会社の現社長某氏の前身がこの学生労働者であったという。

    小僧上りに立身者多き理由

 前項に反して小僧上りの者は、鼻垂時代から厳格な主人の監督の下に、ちょっとの油断なく仕込まれ、父母の膝下では到底味い得られない辛酸を嘗め尽した者である。又いかなる場合にも主人に向って反抗的態度に出ることを許されず、客の難題に対してもつとめて御機嫌を損ぜぬよう、さりとて損はせぬようにうまく切り抜けることを学んでいる。ことにあの呉服屋、小間物屋など小面倒な女子供を相手の番頭や小僧の妙手腕に至っては、実に感嘆措く能わざるものがある。専門の外交官も三舎を避けねばならぬ。かくの如く内憂外患の難局に処して種々の修養を積み、又幼少の時代よりその事業に就き、しかも様々の経験と訓練を経ているので、たとえ中途で事業に蹉跌することがあっても、日頃の鍛錬はたちまち勇気を喚起[#「喚起」は底本では「換起」]して、元の位置に復することあたかも不倒翁の如くである。七転び八起きということは、実に彼等小僧上りの商人の常態である。無論小僧上り必ずしも成功するものと限っているのではないが、少なくとも苦労を知らぬ学校出や、気まぐれに面白半分に実業熱にうかされる素人とのとうてい我慢の出来ないところを平気で切り抜け、また客に対してきわめて腰の低いのは、確かに成功に欠くべからざる要素を持っているといわねばならぬ。
 日本橋のある町に、仏蘭西の香水香油等化粧品いっさいを売って、大繁昌をきわめている一商人がある。初めこの店の主人は、少しく思う所があって、学校出身者中よりいわゆる秀才の聞こえのある者ばかり数名を選び、これに月給二十五円ないし四十円を与えて番頭となし、行商をなさしめたところが、幾月たっても成績があがらないので、主人はやむを得ずこの学校出身者採用を全廃して、全く小僧仕立の番頭をもってこれに代用せしめたところ、着々功を奏して、前にはほとんど売上げがなかったものが、今一日平均数百円の多きに達し、しかも彼らの給料は僅か五円ないし十五円であると。学校出身者よろしく三省すべきである。

    今日の成功者は僥倖児なり

 今や全国の新聞雑誌にいわゆる世の成功者なるものの経歴談や逸話を掲載しないものなく、またこれが大いに今日の時勢に投じたものと見え、すこぶる世人の拍手喝采を受けているようである。久しく腐れ文学に頭脳を萎えさせていた日本人は、日に月に追窮し来る生活のために酔夢愕然として醒め来り、ようやく真面目に立ち帰らねばならぬ今日となり、一も実業、二も実業と、実業熱の大流行を来たし、ほとんどその極度に達した。しかるに新聞雑誌に大いに紹介さるところの人々は、みな一代の富豪で、いわゆる俄大尽のみであるから、さなきだに空想に駆られ易い青年などは、一足飛びに大金持になれるものと心得、実着細心を要する業務に従事することを軽んずる傾きを生ぜしめる。骨が折れずに体裁もよくてそれで金の儲かる仕事を望むようになる。けれども世人が羨望措く能わざるところの富豪は、もとより非凡の人たるはもちろんなれども、おおむね戦争を利用し、あるいは投機的事業を企図し、あるいは高位高官に取り入りて、莫大の利を得たるものが多く、その敏腕を称せらるる内には、必ずある一種の不正を加味せられざるものほとんどなしと聞けり、世にかかる浮雲に等しき富を望む者の多きは歎かわしき限りである。
 ここに当店へ出入りの油屋、彼はもと越後の小百姓であったが、地主へ奉公するも一生開運の見込みなきところから、夫婦相携えて他に糊口の道を探すべく東京に出て来た。着するや直ちにある裏店に居を占め、さて如何なる仕事に就いたものであろうかと思い迷ううち、国もとから持って来た金のうち二十円を食い尽して、残るところ僅かに二十円、これが彼の唯一の資本金であった。彼はせん方なく当座の仕事として石油の行商を始めた。すなわち戸ごとに「油屋でござい」と呼び歩くのであるが、初めの数日間は終日かけ廻って僅か数軒の得意を得たばかり、かくてはとうてい夫婦の口を糊するに足らないので、彼は夜は辻俥《つじぐるま》を挽き、これで得た金を食料に当て、先に資本として残した二十円には決して手を着けぬことに決心した。また彼の叔母に当る人で、金持の呉服屋があった。けれども彼は立派に店でも持たないうちは出入りをしないことに心をきめて、いささかも依頼することなく、朝は未明に起きて油を売り、夜はわらじのままで板の間に腰かけて夕食をしたため、惰気やねむけの催さぬうちに、また暗の中にかけ出して俥を挽き、粒々辛苦実にいうに忍びざる苦境を経て、半年の後には得意は二百軒に増加した。これでいささかの希望の曙光を認め得たので俥挽きを廃業して油売り専門となり、満一ヶ年目には三百戸となり、数年目の今日五百軒に達したので、今は小僧を雇いて共に得意廻わりをなし、妻は店を担当して、夫婦共稼ぎに精々働いた結果、資本裕かになり、生活も楽になったとのことである。そして彼は得意先一軒ものこさず毎日御用伺いに行くのであった。自分はこれを見て御用伺いを隔日にすればよほど手数が省けて好都合であろうと思ったことであったが、彼の得意筋は石油五合一升と買いおきの出来る余裕のある家ではなく、その日暮しの日雇稼ぎ人か工場通いの労働者などを相手の商売であったのだから、ぜひ毎日毎日時間を決めて廻わり、夜の間に合わすのでなければ不便を与える。そうして便宜をはかるのでなければ得意を失う。それゆえ毎日かけ廻って御用をきくということであった。はじめ彼が資本として残しておいた二十円の金には死すとも手はつけまいと決心してこれを実行した。その覚悟と精励刻苦、ついには彼は志を貫いたのである。自分はこの油屋に敬服し、その経験談はいつも我が弱き心を刺激し発奮せしめるのである。かくの如く我が好模範は大厦《たいか》[#ルビの「たいか」は底本では「たろか」]高楼に枕を高くしている大事業家ではなく、心なき人の足下に蹂躙せらるる野末の花に等しい名もなき小売人の中にこそ我が学ぶべき師はあるものと信ずる。

    大商店に奉公せんよりは小さき店を選べ

 我邦屈指の大商店の番頭は、その店へ通勤するのに人力車をもって送迎されたと聞いているが、この人独立で同業を開店し、大いに日頃の敏腕を自分の商店において縦横に振わんとしたが、開業後間もなく閉店することになった。有名な大商店の番頭ともいわれる大技量ある人が、何故一小店の店主として成功しなかったかと、自分も一度は不思議に思ったのであるが、忽下の如き解釈がついた(もっとも失敗には種々の原因はあるが)。大商店として巨万の資本を面白く運転し、また商略上何らの故障なく、意の如く翼を伸ばし、あるいは豪奢をきわめる外国の来賓や本邦の紳士淑女を客としてこれに接するにより、不知不識の間に心気自ら大きくなり、一商店の主人としては万事あまり仰山過ぎて、小規模の店には適当しない。何事につけ仕掛が大袈裟で簡易に行わないで、御大家風であるから、この人にしてこの失敗あらんとはの嘆あらしめたのではあるまいか、これ大いに攻究すべき問題である。
 また製造業を兼ねた大商店になると、すべてのこと分業的組織となっている。例えば菓子屋についてこれを見るに、大店の菓子屋は※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]粉練りは、年中※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]粉ばかり練って、他の仕事に注意を払う暇がない。蒸菓子は蒸菓子の専門の職人これを製造し、洋菓子の職人は日本菓子には何の関係なく、煎餅焼また他を省ることなく、店番配達皆ことごとく分業的仕事に従事するから、もし被雇者にしてただ日給を得るだけの希望を持つか、あるいは他日自分で開店する時、初めからかく大袈裟に営業せらるる非凡の技量と資本とを有する人は論外として、普通の人間では僅々数年の間にすべてのことを洩らさず修業を積むということ、実に至難のわざである。これに反して二流三流の小店に入る時は、主人と共に販売のために経営苦心をなし、ある時は店番と配達を兼ね、ある時は工場へ入りて製造方の手伝いをなし、あるいは使いにもかけ出して行くという如く、万遍なく己が手足と知識とを働かすゆえに、自然経済的思想が緻密になり、いつしか商売の道のようなものを会得して、これがまた他の商売にも利用が出来て、非常によき修業となるものである。ゆえに商業を見習わんとする世の子弟またはこれが父兄たる者よろしくこの辺に注意して、将来の方針を誤らしめざるようにすべきである。

    書生上りの職人

 総じて書生上がりの細脛を使いこなすことは、実に容易なことではない。彼らはただ文字の上から労働神聖を謳歌するに過ぎずして、とうてい実行の人たることは出来ない。せっかく空想を捨て、着実な職業を学ばんとした決心は殊勝であるが、彼らの心底には(恐らく自分にも心づかざるべし)なお職業というものを一種の軽侮心をもって視るゆえに、労働に従事しつつ馬鹿馬鹿しいとの念が失せることなく、その職に趣味を感ずるに至らずして中途で廃するものが多い。
 また彼らは女学生上がりが奥様風を好んで町人風を装うのを厭がる如く書生上がりの職人も昔の書生風を脱却するに逡巡躊躇するものの如く見える。同じ朋輩の職人や小僧と共に外出するにも、自分だけは羽織袴にステッキという扮装で、一見子弟を率いる先生の如くである。これ甚だ些細のことであるが、必竟書生風を脱し得ない輩は、その覚悟もまだまだ本気でなく、乳臭さが取れていないことを証明するのと見て差支えはない。また体力においても、小僧から鍛錬されたものよりははるかに弱くして、忍耐力少なく、僅かの労働にもたちまち疲労を来し、また自ら苦痛を感ずること甚だしいので、主人側でもこの書生上がりの職人を雇うことは非常に不得策で、使いにくいこと予想の外である。

    苦学生採用の可否

 前項において、書生上がりの者の職人として成功甚だ覚束なきことを説いたが、苦学生に至ってはなお然りとす。いったい苦学生の目的は学問を主眼にしてかたわら僅かの労働をなし、それによって学資と衣食の料に当てんとするのである。生活難が今日の如く甚しくなかった十数年前には、学僕と称して、庭掃きや使い歩きくらいで生活したほか、勉学の費用まで与えられ、それで成功したものもまれにはあったが、今日の世の中はその時代よりも幾層倍せちがらくなって、堂々たる学士や紳士たちさえ、ただ糊口のために汲々たる有様となった。自分と家族が生活していくだけでも、なかなか容易のことではないのである。
 しかるに苦学生諸君はこの辺の消息は少しも御存じなく、東京は広い所で仕事の沢山ある所だから半日仕事して半日勉学の出来る方法は容易に見出し得るものと思って、田舎から押しかけて来る。それで己れの希望を容れて世話してくれる人をば、やれ無頼漢の、しみったれの、と途方もない悪口雑言を叩く不了見者もある。我々は貧民と同様に味噌汁と香の物を食いつつ生活しているものであるのに、ある苦学生諸君は我等の朝食料の幾分を節約して、学資を与えよ、然らざれば汝等は同情の念の欠乏せるものとし、共に道徳を談するに足らぬものとして諦めよう、などと、脅迫めいた手紙を送られることも珍しくないのである。
 そこで自分らも一度は境涯を経て来たものであって、また少年時代の学問に志を立てながら、学資の不足なために学問が出来ないと云うことは、その本人に取
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