私の小売商道
相馬愛蔵

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(例)天罰|覿面《てきめん》

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(例)※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]コを
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    序

 私は商業に何の経験もなくて一商店主となったものであります。従って既往幾百年の間に、商人がその経験から受け継いで来た商売の掛引その他については、何の知識をも持っていないのであります。さらに在来の商人が伝来の風習によってかえって商人道の真髄に遠ざかる憾みあることを感じ、むしろ素人を以て誇りとするものであります。
 また欧米諸国の商売振りについても、これを会得する機会を持ちませんでした。
 されば私のやり方は外国の模倣でないことはもちろん、全くの自己流でまた純然たる日本風を以て任ずるものであります。そういう意味で本書を公にすることも、商売の道を辿るものにとって、多少の参考になろうかと思うのでありますが、何分毎日の仕事に追われがちで、一貫した系統を立てる余裕がありません。折に触れ事に臨んで断片的に記述したものを集めて、一冊にまとめ上げたのでありますから、前後の順序等もととのっておらず、また時には重複したところもあり、甚だ不完全なものでありますけれど、その意を諒として愛読をたまわりますれば著者の本懐であります。
 本書は以前、トウシン社より出版され、その後久しく絶版となっていました。その間に社会の情勢は激変し、今回高風館のもとめによって再版を計るに当り、現在の事情にあわない箇所もあります。しかし根本の考えにおいては何も変っておりません。併せて読者の諒察せられんことを願います。

   昭和二十七年十月
[#地から4字上げ]著者識
[#改丁]

[#「目次」略]

    独立自尊の精神

 私は明治三年の生れで、生れたところは日本アルプスの山麓の穂高という村です。早稲田大学の前身の東京専門学校に入って、政治学をやったが、二十三年学校を出ると、友人たちはたいてい官途についたものであった。しかし、私はどうしても俸給生活をするのが嫌で、というのは、俸給を貰って生活していたのでは、結局、俸給をくれるものに対して頭が上がらない。上長に対しては、正しいと思ったことも言えないことがあると思ったので、一時郷里に帰って養蚕業をやったりしたが、また上京して、明治三十四年、東京帝国大学前のパン店「中村屋」を譲り受けて、商売をはじめました。
 こんな考えではじめた商売ですから、私の商人としての態度方針には、普通の商人とはすこしく異なったところがあったかも知れません。明治のはじめ、福沢諭吉翁が唱えていた「独立自尊」という言葉ですが、私はだいたいあの気持で商売をやって行きたいと思ったのです。政治家が政治をするのも国家社会のためであるだろうが、商人が商売をするのも国家社会のためでなければならぬ、同じく国家社会のために、政治家となり、商人となっているのだとすれば、政治家が身分がたかく、商人は卑しい者だなどということはないはずである。ところが我が国では、昔から、うまく胡麻化して儲けることが商売であるくらいに思っていて、商売には人格とか道徳だとか全く無用のものと考えている者が少なくなかった。その結果は、他人も商人を卑しい者だと思うし、商人もまた自ら卑しい者だと思うようになってしまった。だがそれではいけない、立派な商品をつくり、正しい商売をやって行けば、商人は決して卑しい者ではない。人に卑しめられ、自ら卑しめる必要は全くないのである。私はそういう信念を持っております。
 だから私は、お客様に対しても対等の態度で接しております。お客様が理のないことを言えば買って頂かなくてもよい。いやこちらで売ってあげない。私はこれまでには何度かこちらからお得意様をお断りしたことがあります。
 で私は、店員たちを芝居や相撲につれて行く時には、必ず一等席につれて行って見せます。それは、店員たちにも卑下した気持を養わせたくないからです。立派な商品をつくり、正しい商売に努力して行きさえすれば、我々は誰にも卑下する必要はない。政治家が政治につとめるのも、教員が教育に努力するのも、商人が商業に身をくだくのも、すべて国家社会のためという点においては、その間にいささかも地位の尊卑はないはずである。という自信を、私は店員にも養わせたいのです。その自信がなければ本当に立派な商売は出来るものではありません。

    新商人道を提唱す

 商人として理想と現実とが一致し得るものなりやの問題に対し、私は自分の体験上「商人といえども理想を高く掲げて、相当の利益を挙げて立ち行き得るものである」と、確信を以て答えることが出来る。むしろ、現在の商人は利益を望んで理想を持たざるが故に滅び行くのであると考えている。
 その一例として言って見ると、私は昨年十二月十四日から一週間、日本橋白木屋において開催された電通主催、地方各新聞社推薦の「地方物産展覧会」を見に行って驚いた。ほとんど珍しいのがないばかりか、地方地方の特色は全然失われ、みな東京の支配下にある、という感を深めた。
 食料品に至ってはことに甚だしい。参考材料になるようなものは一つもない。かくも地方の不振を招いたのはいったい何であるか。地方経済の不振ということもあろうが、その主な原因はやはり時勢に応じて進む研究心と努力の不足であると言わねばならない。例えば上州前橋の片原饅頭である。三十年前までは片原町全町を挙げて饅頭屋であった、片原町に行って見ると朝早くから軒並に湯気を立てていて実に見ものであった。前橋はいうに及ばず高崎でも、旅館はみなこの片原饅頭を土産に出すので、全国的にその名を知られていたものであるが、現在ではたった一軒その名残りをとどめているにすぎない。
 ある時群馬県知事の某氏が私を訪ねて来られたので、私はこの片原饅頭のことをいうと話だけは聞いているが、「どうして駄目になったのでしょう」とかえって理由を聞かれたようなことであった。いったい利根川べりの砂地に出来た小麦というものは日本一の優種で他に及ぶものがなく、江戸でも京都でも最上級の麦粉としてもてはやされたものである。ところが十数年前、日清製粉工場が館林に出来て、一般の小麦を買い集めて二等粉に製した。すると片原饅頭もこの二等粉を用いるようになった。
 一方東京の一流店では日清製粉などには飽き足らず、値段は二倍とするが、それを厭わずにアメリカのセントラルベストあたりを用いるようになったから、片原饅頭の名声がすたれたのに不思議はない。
 もしこの場合製造家が片原饅頭の名代を護り、海内唯一の理想を掲げて、良い材料を選ぶことに苦心したならば、長年の信用をこんなに早く失うはずもなかったろうにと、まことに惜しいことに思われる。
 西新井薬師の門前は、軒並に名物「草だんご」を売っている。昔あの辺は一帯が原であったので「もちぐさ」が豊富に得られ、だんごやもこれで起ったものであろう。ところが現在ではだんごに青粉を入れている。従ってこれは「名物」だからと買って賞翫する気にはなれない。今日ではただ僅かに名物という名残りをとどめるにすぎないのも故あるかなである。
 私の店でも「草だんご」を売るが、まだ春浅く東京近辺では草が萠え出ていない時分にどうするかというと、房州辺から一貫目二円ぐらいの草を買って拵えているのだ。何品によらずこれだけの注意は払わねばならない。西新井薬師の「草だんご」もこれだけの誠実があれば名物の地位を失うことはなかったのである。
 奥州八戸に「胡麻せんべい」というのがある、昔は東京までその名が聞こえて賞味されたものであるが、最近これを買って見ると一向うまくない。種々研究の結果はこうだ、八戸は昔胡麻の名産地であって、粉も非常に良いものを用いていたが、近頃は粉も劣り、胡麻は安い支那産のものを用いている。
 世は日進月歩であるのに、造るのは次第に劣って来る。人間も誠意と努力が欠けて来る。昔はその土地が自然に優れていてそれが名物となっていたものであるが、世が進めばこれに対抗する苦心があるはずだ、老舗などが倒れて、新しいものにお株を奪われるのもみなこの苦心を欠くからである。
 すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに、「東京を真似る」ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化し、ますますその味わいを失って行く、文明、人物、みなこの名物の例に異らずである。
 また日本の「イチゴ」は世界一である。日本の土地柄として水蒸気の多いことが原因するのである、また日本の果物もオレンジ(米国第一)を除いて他は世界で最も優れている。「イチゴ」がそんなに上等であるのに、日本出来のイチゴのジャムは相手にされない、アメリカ産の一斤入り瓶詰が二円、イギリス産BCが一缶八十銭であるのに、日本産は三十銭というみじめさである。それだけ値が違ってもいまだに舶来品が輸入される。世界一の原料を持つ日本が何故に悪い製品より出来ないかというに、問屋が製造家をあまりに攻めすぎるからではなかろうか。
 私は昨年から、一粒選りのイチゴを最上のザラメを用いて、一缶につきおよそ三四銭余計にかけて三十五銭で売れるものを造って見たところ、アメリカの二円のものに比していささかも劣らず、イギリスのBCをはるかに凌駕することを発見した。
 すなわち従来の日本製品にわずかの経費を増して優良品を製造して売り出したら、売れ行きは従来の約十倍以上に及んでいる。
 私ははなはだ僣越ながら自家の製品を日本一というモットーを掲げているが、日本一たらんとするには、すべからく世界一の優良品と競走せねばならぬ。商人といえども理想を高く掲げて、奮闘努力してこそ自ずからその途も開拓されるのであって、政治家、教育家、宗教家と何等異るところがないはずである。
 商人が社会のために良品を供給し、繁栄して行き得るならば、これすなわち本懐というべきではなかろうか、しかもそれは決して行い難いことではないのである。もって新商人道を提唱する所以である。

    商売繁昌と女主人

 小売商は男子よりもむしろ婦人向きのものと思われます。繁昌する店の多くは聡明なる婦人が中心となっているのを多く見受けるのであります。我々の同業者中でも銀座の木村屋さん、本郷の岡野さん、本所の寿徳庵さんいずれも東都随一の盛況を致せしは皆女主人の努力でありました。今日の大三井家も現代において基礎を作りしは女主人であり、現代でも味の素の大をなせしも当主人の祖母の力に原因し、明電舎の今日あるも全く母君の力であります。
 かく婦人の力は偉大なものでありますが、概して婦人は小心にして注意深きところよりその長所が時にはかえって障害となるのもありますから、この点では注意しなくてはなりません。
 その一例を挙ぐれば、呉服屋にて男主人や番頭は布切五尺の注文に対して、三四寸の尺伸びをサービスとして勉強する場合にも、女主人は五尺キッチリで少しもおまけをせぬ傾があるので、妻女が店頭に居ると客は素通りすると云われて居ります。
 私の知人で信州の山奥に温泉宿の株を買った者があります。その宿屋が非常に繁昌して隣家羨望の的となっているのですが、最近主人に代って妻君が乗り出して万端経営するようになって、ある日主人が私を尋ねて、
「相馬さん、いくら男が威張っても女にはかないません。私が監督していた時には全然わからなかったのですが、妻が来てずいぶん無駄をしていたのを発見しましたよ、冬一期に八十俵も他家に比して無駄にしているのです」
 との話です。
 私はこれを聞いてち
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