もその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならないことになりました。これは何と申しましても私の一生の大失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
 よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売が十円に達した日には、西洋料理と称して店員に一皿八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およそその様子は解って頂けると思います。たださえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことでは中村屋は立ち行くはずもなく、私のあやまちと申しますか、ともかく自分故こんなことになったと思い、一倍苦しゅう[#「苦しゅう」は底本では「苦しう」]ございました。
「仕方がない、言ってしまったことは取返せません、この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう」
 これは[#「 これは」は底本では「これは」]その時、期せずして私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからと言って、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけなければなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかはないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何ほども買って下されるものではないと言って高級な品を造ってみたところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくしても、私共の力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所の移転の説が起らずにはいないところでありました。

   救世軍の番頭さん

 支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込み違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになりますと、その頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍として行軍することを条件として、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。
 その頃大久保の新開地に水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――戸川秋骨先生、それに島崎先生は三人のお子を失われてから新片町へ移転されましたが、ともかく、そういう方々のよりあいで一時文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠治氏などが、その行商最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれ御引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつ回ることにしておりました。するとこの救世軍の人が実によく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に満ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり従ってお得意も日に日に増え、一週に二度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
 それがだんだんと広がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木、と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになった、すると今度はお得意様の方から「どうだ一つこちらへ支店を出しては」というお心入れで、私はそれをききました時は、有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補を予め見て来たといって「千駄ヶ谷付近が最も有望です」という報告でした。
 しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床につき勝ちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りついて居りました。その中で、はっと気がつき「これではいけない」と起き上がりました。「店の人達があんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては」と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。
 まず最初に千駄ヶ谷方面から伴れ立ってまわりましたが、千駄ヶ谷は当時すでに開けていまして将来発展はしそうですが、私の方の店としては不適当でした。方々歩き、新宿の只今店の在る辺りにまいりますと、それは場末の如何にも佗びしい町でしたが、いますぐそこにどれだけの商いがあるか、それは疑問であるとしても、四谷の方からつづいて来ている地形といい、更
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