こで私どもの番頭は返品は一切受取らぬ契約であるが、何しろ相手は月に莫大の得意であるので、一つぐらいという訳で受け取ってしまったものである。たまたま私はこれを発見したので、どういう訳かと番頭を詰問すると番頭は前のような弁解で案外平気でいる。そこで私は取引の約束を無視したやり方に憤慨し今日限り品物を入れることをお断りすると通告し、かつ重大な取引上のことについて店主の指揮をうけずに無断で規則を破った私の店員に対し、かわいそうではあったが泣いて馬謖《ばしょく》を切ってしまいました。これはいかにも人情味のない頑固なやり方のようだが、私は店是というものを国の掟の如く峻厳なものにしておきたいという私の主義と、一つは前にも述べた如く人に縋らずに独立不羈で商売をやって行きたいという信念からであった。
器用貧乏
器用貧乏……私の店が相当繁昌し出した頃、遠縁に当たる男が店を手伝ってくれていたことがある。この男は何をやらせても一人前、これが出来ぬということのない器用人であった。それで私のやることがまだるっこくて見ていられない。ときおり「大将くらい信用があれば私なら店の売上を倍にして見せる」といっていわゆる髀肉の嘆をもらしてみせたものである。そうして、相変らず遅々としている私にシビレをきらしたというのか店を飛び出して独立旗上をした。ところがそれが幾年もなく失敗してしまったのである。この男の失敗の原因といえば己を過信したからだと思う。いくら実力があってもまた資本があっても信用というものは時期が来なければつかないものである。にもかかわらず、この男はスグに信用が獲得出来ると考えていたところに失敗の原因がある。
当時私がそうした自惚れの心を起こし、森永や明治の向こうを張って一つ資本金一千万円の大会社にしてやろうなどという野心を起こしていたならば、あるいは今日の中村屋はなかったかも知れない、結局私は不器用でいわゆる、馬鹿の一つ覚えで、与えられた日々の仕事につとめて来たことが今日あるを得たものと思っている。世の中にあんな才物がどうして成功しないかと不思議に思われるような人物をしばしば見受けるが、どうもこういう人はおおむね己の才に恃んでかえって人に利用され、結局器用貧乏で一生を終わることの多いのは、本人のためにもまた、人物経済上からもはなはだ遺憾なことだと思う。[#地から1字上げ]昭和十一年十一月
新宿進出の動機
私が早稲田大学(当時の東京専門学校)の、現在で言えば政治科を卒業して、初めて本郷帝大正門前に開業したのが、今から三十余年前のことである。その時分営業税なるものが出来たが、それは滅法に高い。ある日、私の留守中に税務官吏が来て、家内に売上高と店員数を訊ねた。当時の習慣として何処の店でも売上高と店員数との申し立てはだいたい半分であった。ところが家内は、売上高も店員数も正直に申し立ててしまったものだ。
果たして営業税は以前の二倍を課せられることになった。私は当時、手一杯な生活をしていたので、営業税を増しただけ欠損を生じ、そのままで行けば閉店せねばならぬ破目に陥ったのである。この間の消息は愚妻の自伝的随筆集『黙移』――本年六月出版――中に彼女が詳しく語っている。
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さてこんな風にお話してまいりますと、何だかお菓子屋の立志伝みたいになって変なのですが、決してこれは立志伝ではなく、今日中村屋の店頭がいささか賑しく見えますのも、またパン屋というには少し複雑な内容を持ち、扱う品々に個性というようなものが見えると言われるようになりましたのも、すべてどこをどう目指してとお話できるようなものではなく、ただ自ずと来り結ぶ機縁により、ただその縁に従うて力一杯の努力をいたしますうちに、不知不識ここに至ったものであります。
その機会というようなものは、いつも初めは一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現われました。開業明治三十四年、それから日露戦争の三十七八年までに、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから、華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売れ行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入は目に立ち「あの店は売れるぞ」というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まずある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによると税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ちいかないのでした。
それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届出の額に何ほどかの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうして
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