どにも注意をしなければならない。雁鍋、松田、平清、岡野その他の何所の「だんご」という如く、昔東京の名物であって今はあとかたもなく消えてしまった所が枚挙にいとまがない程である。青柳有義氏は、本郷の江知勝は旧の大広間を廃して、二三人づれの客のために小室を多く設けたるを以てすなわち今風のハイカラ連に持てはやされ衰微の厄を免れて繁昌をつづけたものだといわれたが、これは実に商人として最もよき参考とすべき価値ある例である。
東京の小売相場の高き理由
市街の繁栄は、いつも地代家賃の騰貴[#「騰貴」は底本では「謄貴」]を伴うもので、いわゆる土一升金一升の相場を示すに至るのであるが、ことに近来の如く、二間間口くらいの小商店でさえ、光り眩ゆきガス電燈を点し、あるいは電話を架設し、自転車を用い、中央部の大商店となれば、番頭でさえ従来の前掛を廃して、ホワイトシャツにハイカラ、という洋装に改め、床屋の職人、西洋料理店のコック、ボーイなども、コスメチックや香水の臭いをプンプンさせている。田舎者などには立派な御役人様と見えるくらいである。また店の雑作なども、最新式に建て直し、装飾も入念にしつらえる等、すべての設備に贅を尽し美を華めるという有様でなければ、すなわち東京の真ん中に割込んで立派な商店として仲間入りは出来ない。かくの如く、店が繁昌すればするほど、地代家賃を引上げられ、また種々の設備に多くの資本を入れなければならぬゆえ、勢い都会における小売相場を上げざれば、とうてい維持することが出来ないのである。ゆえに東京市中でも最も繁昌を極めている銀座は、最も小売の高き場所として世人に知られる通りである。彼のニューヨーク、桑港の如きは、普通の小売相場はことに高く、ほとんど原価の倍である由なるが、彼の地としては当然の事と思われる。
また東京市ほど小売相場の不同な所は他に類がない。同区内否同町内においてすら、甲店と乙店とは同じ品物の価に非常な差違のあることを発見する。それで高価の店も安価の店も同時多少の得意を有して、相当の収入を得つつあるは、我ら素人にはちょっと了解に苦しむところであるが、これすなわち東京は全国から各種各階級の人々の輻湊するところであって、ある区のある町はほとんど全市民が相往来するから、得意の種類は、いわゆる一遍のもの多数を占め、その範囲又極めて広きと、今一つは東京人は地方人よりも非常に多忙で気ぜわしいので、少しくらい安価の店があっても、ただ単に価が安いだけでわざわざまわり道して貴重な時間を費すことはしないからである。かつ東京人は精良品を好むがゆえに、安価品は不良品ならんと疑い、かえって高価の店に行く傾きがある。たとえば当店にては鷲印のコンデンスミルクを二十八銭で売っている。しかるに有名なるある薬店では三十四銭で売っているが、やはり相応に売れている。この辺の事情は実に地方と趣きを異にする所である。
交通機関と大商店の発達
まだ汽車電車の開通しなかった昔は、いわゆる二里に一宿とて、その要所要所に宿場を設け、その周囲近郊の人々の用務の大部分はすなわちこの小中心において便ぜられたものであるが、汽車の開通とともに、二十里以内の宿場々々は都会にのみ了せられた如く、東京市中まま宿場に等しき小中心を、一区内に少なくも一カ所以上は現存しつつある。すなわち牛込区神楽坂、糀町の糀町通り、神田の小川町、浅草の雷門、蔵前、本郷の四丁目における如く、小中心点があって、その付近は各種の商店櫛比して、あらゆる設備をなし、互いに繁栄を競いつつある。しかるに電車という交通機関開けてより、四通八達、わずか数銭を投ずれば都の片隅から片隅まで、短時間のうちに往復が出来て、遺憾なく用務を便ずることが出来る。それ最寄り最寄りの小中心に徒歩にて買物に往くよりは、電車の便を利用しても、品物が潤沢で、また最も斬新な流行物の集れる大中心へ行き、思い思いの嗜好に適合した買物をすることが出来る。ゆえに時々刻々、年一年大中心と目指さるる日本橋、京橋付近は、小中心に属する全市中の得意を吸収して、いやが上にも繁栄を来たすべき勢をなしている。すでに場末の呉服屋が三越、白木屋、松屋等に得意を割かれしは著しきものである。かくして強はますます弱を凌ぎ、大は小を併呑し、結局資本と資本の競争となるだろうと思われる。ゆえに資本の少なき者が、この間に立つにはよほど工夫を要する。
雇われる人と雇う人
学校出身者の多くは被雇人に終る
およそ実業に関係する諸学校出身者の多くは、自分である事業の経営者たらんとする者なく、卒業早々何ほどかの給金にありつこうともがくものの如し。これ他なし、なまじ卒業という肩書を得たばかりに、これに依頼してしまい、から意気地なくなるからである。彼らの資格なるも
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