他人の古店を譲り受けるよりは、新しく店を開いて、屋号も自分の郷里(世人には何の興味もない)の名に因んでつけ、商品も自分の独断で売れそうに思うものを大いに販売して他店の鼻をあかしてやらんとする傾きがあるが、ここがすなわち素人の初《う》ぶなところで、特に田舎出の人々の陥り易いところである。一商店を他人に譲り渡すには幾分の欠点は必ずあるだろうが、何町の何屋として何々の販売をしていることを、その近傍数百千戸の人に知られていることは非常な価値のある事にて、これがために毎日相応の売上げ高を得るものである。新たに開店してこれほどの地位に達するまでには莫大の広告料と長年月を要するものである。特にその近傍における得意の嗜好とその購買力の程度という、実に尊き知識をも同時に譲り受けることであるから、その利はちょっと予算し難きほど大なるものである。東京の客は地方の客と異なり、店主の顔を記憶せずして専らその店と家号を記憶するゆえに、主人は幾度交迭しても、その家の改まらざる限り、得意はあまり離れぬものである。自分の如きも今のパン店中村屋を譲り受けてから五ヶ年なれども、なお得意の大多数は自分が代がわりの中村屋たることを知らない。ここに一奇談あり、我が店の近隣に、本郷区にても屈指の下宿屋がある。かつて先代中村屋店主と口論したことがあったので、爾来中村屋からは何物も買うまいと決心したものの如く、自分が代がわりとなりし後たびたび辞を低うして用向きに伺ったが、ついに一回の用命もなくはるばる十町も隔っているパン屋からパンを求めているとの事である。しかるにこの遠方のパン店こそ彼がかつて口論せし先代中村屋が再び開業せしものであった。かような奇談もあるくらい、屋号ばかりは記憶されているのであるゆえ、東京市中十万の商店中毎年代がわりするもの少なくとも一万戸を下らずといえども、世人の多くはその代がわりの多きを知らず、年々歳々、各商店の繁栄を加うるものと信じて、同一の商店より買物をなしつつあるのである。かく屋号は大切なものであるから、なるべく旧屋号を踏襲して得意を散逸せしめず、充分商業の呼吸を呑み込んだ上で、徐々改正を施すのが最上の策である。しかしながらこの誤りに陥るのはひとり地方人士のみではない。東京の真ん中に住んでいる官吏諸君もこの価値を認めないものと見え、市区改正に際し、人民に立ち退きを命ずる時、家屋所有者には充分の賠償をなせども、家屋所有者以上の損害を蒙るべき営業人すなわち造作の持主に対しては、ほとんど償う所なく、ただ僅かに二三十円の立ち退き料を給するのみである。実に当局者の無知なために、如何に良民が苦しめられているか、少しく調査を願いたいものである。
八、地方人と東京人との嗜好の相違
ここに田舎の富豪があって、最愛の娘のために最上の嫁入り支度を調達せんとして、数千円の金を擲《なげう》って、田舎ではとうてい東京の中等呉服店にあるほどの品物もなかなか得られないのである。洋物、小間物、飲食物器具等またしかり、これに反して田舎に売れ行く粗末な品物を、東京において求めても容易に見当らぬであろう。これは東京人と田舎人との趣味嗜好の相違するゆえんである。ゆえにもし地方人の歓迎を受けんとするものは、品質粗悪でも価さえ廉であるならば、のんきな田舎人はわらじがけで買いに来る。しかし東京においては全くこれと正反対であって、価安きもの必ずしも売行きのよいものではない。むしろあまり廉に過ぎれば、却って得意に不安の心を抱かしめ、その品物につき多少の疑いをはさませる場合がある。それゆえ東京人の喝采を博するには、ぜひ品質の精良なるを選び、原料をも精選せねばならぬ。しかも彼らの嗜好に適しさえすれば、価高きには驚かない。借金を質に置いても買わずにはいない。見よ有名なる商店はいずれもこの方針によらないものはないのに心づくであろう。我ら開店せんとした時に、郷里の一名物を持って来て、大いにこれを広告的に廉価に売り捌こうと思った。それで自ら産地に赴き、またその製造所なども実見して製造家と特約を結び、意気揚々満腔の希望を抱き、天晴れ実業家に成りすましたつもりで東京に出て来た。しかし噫呼これも書生上りの空想に過ぎなかったのである。我得意たらんとする人は東京人であったことを忘れて居ったのである。我が郷里の人こそ名物として珍重するが、都人士の口はすでに一と昔も否もっと以前から舶来品の最上等を味わっていた。原価を切って馬鹿に安売りしても、都人士は一瞥も与えない。営業を経験せし後、初めて東京人の嗜好如何に考えの及ばなかったことに気づいたのである。これひとり我々ばかりではない。一地方の特産を持つ人は誰しも初めはこの考えを持つらしい。また今日現に各国の産物が、その地方よりわざわざ支店を出して盛んに広告をしては販売
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