家族は美食しているが、小僧雇人は特別の粗食である。休息日に家族の者を遊びに出して、雇人小僧に留守番をさせている。これが小僧の不平の根元である。また一定の休息時間を与えない。ある仕事を仕上ぐればその先に休みが出来るとの望みを与えない。従ってその仕事に隙が入る。主人の目先きを偸んでは怠ける。良店員良小僧とその家の商売とは関係が最も密接である。しかるに田舎では雇人は朝から晩まで息もつかせずに働かしむる習慣があるから、新たに東京に出て来た商人も、その雇人を使ったように使おうとする傾きが著しい。これがその店の繁昌せぬ一原因となるのである。

    新たに商店を開く注意

 地方人の失敗する理由は、概略前章において述べた通りであるが、いよいよ新たに店を選択せんとするには、さて如何なる場所を如何にして得べきかを詳細に説く必要が起る。それゆえ多少重複の恐れはあるが、左に別項を設けることにした。

    一、場所の選択

 我ら素人はとかく事業に関して臆病にすぎるもので、商店の選択なども、思い切って好場所を探さんとはせず、いつも見込のない場末を選ぶくせがある。これは資本の裕かでない、しかも無経験の田舎人にとりては至極もっとものようなれど、商店の盛衰は過半場所の如何にかかるものである。
 天下の商業界に第一流を占めんと欲せば、思い切って第一流の地を選まなくてはならぬ。第一流の地とは歴史的にすでに東京の目抜きの場所といわれている所で、実際上にも海陸とも交通の便利最もよく、銀行、問屋、運送店等にも至極便利のよい地を選まなくてはならぬ。しかしながらかかる地はすでに有名なる豪商等の占むる所となっていて、地方出身の人の容易に割込むことの出来るものでないから、初めは第二流、第三流の中心地を見立て、ここに城を築くがよろしい。例を取るまでもないが、織田信長や秀吉は、尾張の如き大平原に起ったけれども、武田信玄のように山間に城を築いたのではとうてい成功するものではない。四谷の片隅や小石川の谷では、日本全国相手の大商店は起る筈のものではない。ゆえに資本の少ないものは第二流第三流の地に開店しておいて、次第に資力を貯え、信用を増した上で、初めて第一流の地に出て奮闘を試みる覚悟がなくてはならぬ。
 ある歯科医はその技術においては東京でも随一と評判される人であるが、資本が充分にないために、誤って浅草の一隅に開業した。開業以来すでに十年になるが、割合世間に名が広まらないで依然として微々たる有様である。これに反してその人の朋輩であった所の一歯科医は、人物も技術も前者に比してはるかに劣っていたが、機敏にも大奮発して中央の目抜きの場所へ開業したため今は堂々たる歯科院長として、非常な盛大を致しているようになった。その他医師はもちろん弁護士、産婆などのすべて人を相手の職業は、その得意とすべき人物が有力で、そして多数である所を選ぶことが最も必要である。ことに商業はこの点については最も苦心を要する所である。一度この選択を誤まれば、万事は休するのである。
 なお一つ注意すべき事が残っている。それは東京市中に電車が開通するようになったため、各商店は非常な影響を蒙った。すなわち電車停留所付近はまだ開通していなかった以前よりも売上げ高が増加して、ただ通行する道に当っている商店は大概売上げが減少して来た。つまり停留所付近で増加したそれだけ減ったわけであるから、この事もよく考え合さねば失敗を招く原因となるのである。

    二、地理上の関係

○昔の人は山に住む人を仙人といい、谷に住む人を俗人といったそうだが、商人はその俗人中の俗人であるから、なるべく低き所に店を持つことが必要である。土地の高い所には決して大商店は発達せぬものである。これは一種の心理作用から来るものと見え、誰しも買物になど出かける時には、我が居宅から低い方へ行き易く、高い方へは容易に足が進まぬものであるから、とかく低い所が商店としては繁昌するようである。東京、横浜、大阪神戸なども、ことごとく下町に商店が集っていて、山の手は学者官吏などの住所であるゆえに、高低のある地であるならば、なるべく低き所を選まねばならぬ。
○あまり広き路幅の所は店が淋しく見え、夏は日光が強く照らすように思われ、冬は寒そうに感ぜられて、道行も幅の狭い街へ避けようとする傾きがある。これはひとり人間ばかりでなく、魚の泳ぐ所を見てもやはり物の陰に集まろうとしている。それゆえ市区改正のために商業上大打撃を受けた実例は到る所にある。路幅の広い街さえすでにかくの如くであるから、片側町の繁昌しないのは申すまでもない。
○坂町も禁物である。人は坂を上らんとする時は必ずやっとの思いで頂上に達せんとあせるものゆえ、途中の商店に眼を配る暇がない。下る時も同様である。馬なども坂路は非
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