りにお客に売るに過ぎないのである。
ところが小売商においては、その道で相当苦労したものが多く、商品の知識にかけてはデパートの売子なんぞと、雲泥の相異である。
この点を一段と力を入れて、お客にサービスしなくてはならない。
例えば呉服商においては、呉服物を売る場合レーヨンが交っているか否か、レーヨンが入っているとしても、このような場合にはなんでもない、むしろこうした向きの使用にはレーヨンの特色を発揮するものであるとか、一々細々と親切に、お客の身になって説明するというふうであれば、お客も自然とついて来る。商品には間違いがない、主人は親切である。などと口から口への宣伝によって、商売が繁昌して来るのは当然である。
日本の商船は、その構造及び速力において、外国商船に遠く及ばない。しかしながら、日本の商船が諸外国の汽船と相対比して行けるのは、要するに日本商船の乗組員が親切で謙遜であるからである。サービスが充分に行き渡る。そこにお客がつく原因があるのである。小売商人もそこを学ばねばならない。
商人道のために惜しむ
百貨店の経営は、そのため、都下一流の商店が着手したものであって、また販売品も相当なる品物を取扱ったために、権威もあり信用もあったのである。そして商品に対して正札制を確立したので、客は安心して買うことが出来るようになった。
一般小売店でも、正札をつけて置く店は、以前から少なくはなかったが、客が値切れば幾らかは値引する店の方が多かった。だから客の方では「言い値で買うのは馬鹿らしい」という考えを持ち値切るという事が買物常識の一つとなったのである。値切る客が多いから掛け値をする、掛け値があると見るから値切る。商人の方ではこれが商売の掛け引きであると考えている。しかるに百貨店では、商品の値に二色はないとして正直正銘と称する正札制を確立して、客をして買い易からしめる便宜を計った。この点は百貨店の功労であって敬意を表するに足りる。
ところがこの頃の状態は如何であるか、正札制を確立した百貨店自身が、日と時とを限って正札の割引をしたり、定価を変更したり、景品を出したり、福引をしている有様だ。
五十銭の品を三十銭に売って、原価販売と称しているが、三十銭が原価なら五十銭の定価は甚しい暴利であり、また五十銭が正直正銘の正札なら三十銭に売れる道理はない。「いやそこが社会
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