ここに大いに我々の考えねばならぬものがあります。
まず初代は、幾多の困難に打ち勝って漸く一家を成したのですから、金銭に対してもその価値を知っていて、同じ使うにも使いどころをわきまえている。たとえ零細な金でも無駄な支出はしません。そうして日常つつしみ深くあるとともに、業務の方では使用人と一緒に働いて、苦楽を彼らとともにする。それゆえ使用人も主人に親しみ、敬愛し、よろこんで職務に精進するのであって、この両者の持合が崩れぬ限り、家運はますます盛んであります。
ところが二代目三代目となるとそうは行かぬ。三代目はさておき、二代目にしても、これは初代の子で創業の時代に生れているとはいうものの、青少年期にはすでに家業も盛んになって、それにつれて生活も拡張されているから、家には女中あり下男ありで、不知不識に我儘を助長される。無論高等の教育を受け、またこの時代色であるところの旅行に、運動に、音楽に、芸術の理解も出来れば相当に享楽の道を心得て、知識も見聞もとうてい初代の及ぶところではありません。昔語りに親達の苦労のあとは聞くが、それかといって現在は現在で、衣食住は向上する。二代目としてはもう初代のような質素な生活は出来ないのであります。
その結果として、初代の時は店の経費も生活費も多くを要せず、従って営業の方針も薄利勉強で進むことが出来て、ますます世の信用を博し営業も発展したのであるが、二代目三代目は諸経費の増大のため、従来の薄利主義を守ることが出来ない。漸次利鞘を大にして勉強の度を減ずるほかありませんから、店の信用は低下し、売上は漸減する。また初代主人と使用人との間には、多年苦楽をともにして、互いに離れられぬ親しみがあり、また階級的の差別を感じるほど生活程度も違っていぬから、使用人として不平も起らない。双方におもいやりがあって、感謝の気持で働くから能率も上がるが、二代目三代目となると主人はもう使用人とともに働くわけには行かぬ。ただただ指図をするか、あるいは顔出しをするくらいに止まることになって、しかも生活程度は甚しく懸隔を生じ、使用側は羨望と不満から自然と職務は怠り勝ちとなり、能率が低下する。
大会社や大工場の重役等が労せずして高給を食むに反し、実際に中堅になって働く役員や職工はその十分の一程度の給与しか受けないために、不平を起して充分に働かぬと同様の結果となるのであります。
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