に郊外へ伸びて出る関門に当っていますので、やがてはと直覚されるものがありました(以下略)
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その頃の新宿、角筈方面は辺僻な田舎であったが、私は断然決意してそこに店を開くことにした。そして本郷の方はその後店の功労者に譲ってしまった。爾来三十年間、今日に及んでいる。かくして当時の田舎だった新宿は、今や山の手の銀座といわれる程の発展を遂げている。禍い転じて福となる。というか、いささか今昔の感が深い。
新宿家相
店舗の適、不適が営業の盛衰に重大な関係を持つことは、何もいまさら私の発見ではありませんが、何がその規準であるかという点について、明答を与えた人は少ないようです。
照明がどう、ショー・ウィンドーは如何、売り場の作り方、ケースの高さ等々の点については研究している人々が多いが、店舗全体の品格とか、顧客の数とその店の広さなどについては、寡聞にして私はまだその数を聞かない。世間にはよくある例ですが、客が混み合ってきわめて手狭を感じ、当然拡張されてよいと思われる繁昌店が、一挙に三四倍に拡張してたちまち顧客を失い、まことに入り易く、親しみ深く感じられた日本家屋の菓子店が、入口の狭い洋風の店に改造して売上げを半減したなど、あるいは道路面から少しく爪下りぐらいの店が、客が入り易く、かつ商店が賑やかに見えて宜しいにかかわらず、改造に際して地下室をつくる必要上、道路より、一二尺も高くしたために売上げを激減したなどのことがあります。
この点につき、私は中村屋の経験に徴し、いささか意見を述べて見ましょう。
新宿に開店当時の中村屋は、間口五間、奥行二間半計十二坪の広さであり、売上げ一日平均七十円内外、一坪当り約六円でした。
当時この店は、売上げに比して、少々広過ぎるくらいでしたが、その後売上げ漸次増加して、一日三百円に達した時は、甚だ手狭を感じました。そこで奥行を三間半に拡張し、その後いよいよ繁昌が加わり、これでは無理だと思われるにつれて半間、あるいは一間と取り拡げ、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪から五十坪にまで漸次大きくして来ました。ある時は改造後、僅か六ヶ月で、更に改造の必要に迫られたことなどもあって、友人等は私の改造のあまりにも姑息であってかえって失費の多いことを指摘し、一挙に大拡張をしてはと忠告してくれたというような
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