十度という試みをした結果、とうとう松の実カステラをつくり出した。
苦心の甲斐あってこれが大いに世に迎えられ、売行きが増加するにつけて、松の実の買付けも多くなったので産地でも相場が上がり、このことによってまた半島の同胞に喜んでもらうことが出来たのは、私にとってまことに松の実の不老長寿以上の喜びであった。
個人商店を株式会社に改む
大正十二年中村屋の売上高は一ヶ年二十万円に達した。これに対して税務署は、純所得をこの売上高の一割五分として三万円に査定するということであったが、そうすると税金だけで六千円近くになる。
税務署のかかる追求には、中村屋は本郷以来相当悩まされ、どれほど折衝したか知れないが、ついにここに至って、査定通りの税金を払ったのでは立ち行かぬということになった。
中村屋はよく売れるには相違ないが、至って地味な経営で安全第一主義であるから、利益率は売上げの増加に反比例してかえって減じているほどであった。むろん私が言う安全第一は消極的の意味ではないが、優良な品を売ることが店の眼目であれば、製造に関する諸設備も絶えず改善されねばならず、店員の待遇も漸次引き上げて、日々の繁忙の間に犠牲者を出さぬよう出来得る限り生活の安全を計るべきであるし、店が発展すればそれにも増して経営費率が上がり、利益はかえって少なくなる有様であった。したがって純益は三万円どころか、その税金の六千円だけもむずかしい実状であった。
そしてこれはひとり中村屋に限ったことではなく、世間の健実な商店の経験するところであるが、税務官にはこの理由が理解しにくいと見え、店が発展して来ればどこでも必ずこの問題に悩まされるのであった。
中村屋はついに窮余の末、十二年四月急に株式会社組織に改めた。その結果純所得が約五分の一の六千三百円に決定され、税金は、私の個人所得をも加えて千五百円となった。すなわち中村屋は個人商店を株式会社に改めて、初めて税金が負担に堪え得る程度のところに落着いたのであった。当時税務署の課税方針には、個人商店に対するのと、株式会社や百貨店に対するのと、じつにこれだけの相違があった。しかしこの不合理も近年は大いに改まり、会社組織と個人店の間に著しき相違を見ざるに至った。
さて株式会社中村屋は資本金十五万円とし、全株の半分を妻良の名義にし、残りの半分をば私と婿のボース、伜や娘
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