る中にあって、ずいぶん割の悪い人知れぬ苦心をしたものであった。材料は騰貴し、世間には金が洪水をなしているような話であっても、その半面には直接好景気のお蔭を被らぬ俸給生活者の生活苦の声があり、小売商はその間にあって、一方からは高い材料を買い、一方へはそんなに高く売れないという状態であった。それゆえ砂糖は二倍半まで上がったにかかわらず、菓子の売価は前後二回の値上げで、一本十五銭の羊羹を二十三銭に改め、約五割ほどの引上げをした程度に止まるのであったから、同業者は内実みな赤字となって困難した。それでも世間一般好景気の手前、泣言もいえぬという有様であった。
 しかしその赤字は停戦となって物価急落後の一年間に、だいたい補充することが出来た。それは前にも言ったように、中村屋は高値を見込んでの思惑買いというものをいっさいしていなかったから、すぐに安くなった材料を使えたこと、材料は下がってもいったん価格の上がった菓子はすぐ下がるというものでなく、なお相場の落着きを見るまで当分そのままに置かれていたから、これまでの赤字に引きかえ、普通以上の利益となったこと、もう一つはいかに原料高で赤字となって苦しい時も、平和回復の時を信じて原料を落さず、いつも最良の品を用いて来たことにより、お得意がいよいよ増加し、売上げが多くなって確実に繁昌の度を加えたこと等々、およそ世の投機的商才とは全然相反する誠実と辛抱の結果として、きわめて自然に持ち来たらされたものであった。同業者中にはここまで辛抱が出来ず、原料高に堪えかねて材料を落し、あるいは分量を減じて赤字から免れることに腐心するうち、次第に得意の信用を失い、ようやく平和となって利益の見られる時分には売れ高著しく減じて、とうとう破産したものも少なくない。
 私は店員諸子に言っておく。欧州大戦で私が経験したほどのことはなくても、物価が急に騰貴し、原料高で赤字に苦しむことは今後もあるであろう。その時は焦ってはいかぬ、常時における若干の利益は得意よりの預り物と考えて、力の能《あと》う限り辛抱し、預金の返済をするつもりで勉強することが必要である。そうすれば販売価格の引き上げられる時、または原料下落の場合に、出しただけのものはきっと戻されて来るものである。あまりに小心に目前の赤字を免れようとして値上げを急ぎ、また品質を落すなどのことは、商人として慎しむべきの第一であ
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