たのであったから了解してこの事件を解決した。
中村屋の店員諸子もやがて私のところを出て独立すれば、一度は必ずこういう試練に会うことであろう。願わくは酒を売ろうとした私の過失を君たちにおいて繰り返すことなかれ、いわんや自ら不誠実にして他人迷惑な囮商略を弄するものとなってはならない。
賞与の銀時計
やはりその時分のこと、中村屋の近くに村上というパン屋があって、ちょっと他の店にない美味しいパンをつくり出し、フランスパンと称して売っていた。そのパンは学生さんたちに特に好評でよく売れたが、中村屋ファンの学生さんたちはフランスパン、フランスパンと言いながら、やはり私の店の方へ来てくれる。そして顔を見るたびに『中村屋でも村上のようなパンを売り出せ、出来ないことはないのだろう』というわけで、私も何とかしてフランスパンを拵《こしら》えなくては済まなくなった。
そこで職人にいいつけて研究させるのだが、彼らが何と苦心しても、そのパンのような美味しいのは出来なかった。私も残念であったが、お客様の方でもまだかまだかという催促でじつに困った。ところが一月ほどすると、長束実という少年店員がとうとうそれを造り出した。しかも食べくらべて見ると、村上のよりも美味しいくらいの出来であった。
私は大いに喜んだ。これでこそ中村屋も恥かしくない、中村屋ファンのかねての信望にも報いることが出来るのであった。早速それを製造して売り出した。お待ちかねの学生さんたちも『これはいっそう上等だ、よく出来た』と言って喜び、友人たちにも大いに吹聴してくれた。店はいっそう売れるようになった。
さてこの長束実は、中村屋が私のものになった最初に入店したもので、まだ小僧であったが、常から真面目で勤勉で研究心に富み、じつに感心な少年であった。果たして今度そういう手柄をしたのであるから、私はこれこそ表彰して他の店員の模範とすべきだと考え、賞与として長く記念に残るようにと銀時計を買って与えた。むろん店はじまって最初のことであった。純情な長束少年はこれを非常な光栄と感じ、いっそう仕事を励むとともにその時計を大切にして、つい数年前死去するまで、約三十年というもの、肌身離さず愛用し、死んで行く枕元にさえちゃんと飾っていたほどであった。
しかし後になって考えると、この銀時計を彼にのみ与えたことは私の大きな過失であった。フラ
前へ
次へ
全118ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
相馬 愛蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング