末をし、目立たぬように干してやっていました。また忙しい中で手まめに綻びを縫ってやり、空模様があやしければ雨傘を忘れるなと気をつけてやる。万事この調子で、いろいろ心配りが多くて行きとどかぬ勝ちの私を扶《たす》けて、それはよくしてくれたものでした。
このおはつさんに一つ不思議なことがありました。それは自分だけいつもおじやかお粥を食べていることで、私は気にかかり、ある時何故かとおはつさんに訊ねてみました。すると傍から職人が『ナーニおかみさん、御心配には及びませんよ。おはつさんは釜や飯櫃にくっついた御飯粒や種子飯《たねめし》(パンの発酵素をつくる)の残りを集めて煮てたべているのですよ』と代って返答したので初めて謎が解け、年若とはいえあまりに認識の足らなかった自分を恥しく思うとともに、おはつさんの心がけにはほとほと感心いたしました。
仙台の生家にいる頃、お勝手の手伝いをさせられる時に私はたびたび母からお竹如来のはなしを聞かされ、物を粗末にしてはならないこと、水使いのあらい者は人使いもあらいものだから、井戸水でも一滴だって無駄にこぼしてはならないと言われたことを思い起し、我らのおはつさんもおはつ如来として祀《まつ》ってよい人だと思いました。
お竹如来のことはその後も忘れませんでしたが、芝増上寺の末寺飯倉赤羽橋の心光院に今なお祀《まつ》られていることを最近に知り、それがまた故渡辺海旭先生と深い因縁のあることも分って、いまさらのように仏縁の尊さをしみじみと思うのであります。昔私が母から聞かされたように、あなた方もこの話をよく聞いておいて下さい。お竹如来の由来にはこう書いてあります。
お竹大日如来流し板
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慶長年間、江戸伝馬町佐久間某の婢に竹といふ慈悲仏性の女あり。台所の流しもとに布を張り、流るる飯粒を防ぎて己が食となし、己の食を乞食に与ふ。遂に生身の大日如来と化生し、流し板より光明を発したりと。霊像並びに流し板は今東京市麻布飯倉町赤羽心光院にまつる。
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末世まで光る後光のさした下女 (江戸時代川柳)
雀子やお竹如来の流しもと 一茶
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今でも何ともいえぬ温さをもって思い出されるのは、おはつさんが、私の使い古したものを喜んで受けてくれて、幾年でも大切に保存し、その季節になるとちゃんと取り出して
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