んか』でまた寝てしまうものが多かったのです。中に一人至って気の早い愛四郎というパンの仲職人が『ソラ火事だ』と真っ先に飛び出しました。
 間もなく鎮火して、愛四郎その他の者も戻ってもとの床に入りましたが、翌朝になって意外なことを発見しました。というのは、これも主人がよく話をする浅野民次郎の枕と敷蒲団が血でよごれていたのです。被害者の浅野さんは言いました。『昨晩火事があったことは知っているし、顔のところがひどく痛いと思ったがそのまま眠ってしまった。いったいどうしたのだろう』
 もう包み切れない加害者の愛四郎は白状しました。『それは俺かも知れない。火事場に飛び出す時、暗闇の中でぐにゃりと生温いものを踏みつけたと思ったが、どうも浅野さんの顔を踏んだらしい。お気の毒をしました』と、浅野すかさず『鼻はだ迷惑いたしてござりす』ござりますを仙台の田舎言葉で浅野さんはござりすと言いました。しばらくはこの真面目な人の洒落で一同笑いが止らなかったが、これも笑いごとではありませんでした。

    主婦の指導者おはつさん

 おはつさんは先代中村屋から店とともに受げ継いだ女中で、主婦の私より四つぐらい年上でしたから、その時分もう三十になっていました。生国は越後で眼に一丁字もない無学文盲でしたけれども、性来の利発もの、お世辞はないが実直でなかなかたのもしい女でした。私は女中を呼び捨てにしたことはなかったのです。必ず誰さんと呼び、今でも子供たちにもそうさせています。
 私はこのおはつさんを師匠として、店に来て下さるお客様への接しようから水引の掛け方、パンの扱い方など、何から何まで教わりました。お客様の顔を見るとすぐ『いらっしゃい』と、元気よく一種のアクセントをつけて迎えるのですが、新米の者にはこれがなかなか出て来ないもので、私が困っていると陰からおはつさんが『いらっしゃあい』と早速助けてくれたものです。
 おはつさんは馴れない主人を侮らずに大切にしてくれるとともに、職人や小僧(その時分は小僧といいました)たちにもちょうど弟か子供にするような態度で、それは親切に世話をしました。よくないと思うことは黙っていないで叱りました。朝二階を片付ける時、小僧が寝ている間に粗忽して蒲団を濡らしていることがあり、おはつさんはそれを見ると私に知れないよう、また朋輩に見られて顔をあかめないで済むよう、自分でそっと始
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