これまでより良い品が売れることになったのである。
すると有難いもので店の売上げは日に日に上向き、間もなく二、三割方の増加を示すようになった。こうなると五ヶ条の最後の一つ、国元の養蚕収益から支出するということは要らなかった。どうやら一個のパン屋として、苦しいなりにも独立自営の目途がついたのであった。
私の母校東京専門学校の大学昇格資金に、金壱百円を寄付することが出来たのは、たしかそれから一年後であった。まず最初の三年計画が一年で行われたような結果であった。
コンミッション排斥
書生上がりのパン屋というので当時は多少珍しかったものか、婦女通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、書生パン屋と題して大いに社会に紹介された。
この記事が出ると、今まで知らずにいた人も『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
そんな関係からだんだん学生さんに馴染《なじみ》が出来て、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋へ註文があり、私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。
ある日その一高の学生さんが見えて、一人五銭ずつ八百人分の註文があった。ところがその後へ小使いが来て『今日寄宿舎に入る四十円の一割を小使部屋へ渡してもらいたい、八人で分ける』という。私は、学生さんから直接の註文であること、また学生さんのことなのですでに特別の勉強をしてあることを話し、小使いの要求に応じる筋はないと言って断った。
すると彼は意外な面持《おももち》で『他の店ではどこでも一割出す習慣になっている、それをこの店だけが出さぬとあれば、容器《いれもの》などはどんな扱いをするか保証出来ないが』そこで私は『それも宜《よ》かろう、君らは学校から俸給を貰っていて学生の世話が出来ないというのであれば、君らの希望通り、明日から学生の世話をしなくともよいように取り計って上げよう』早速学校の当局に出向いていまの言葉をそのままに話して来ようと強硬な態度を見せたところ、その小使いは驚いて逃げて帰った。あらたまって飛んで来たのが小使頭で、彼は前の小使いの失言を詫び入り、どうぞ内聞に願いたいと頼むのであった。私も気の毒になって、それではと菓子一袋ずつを与えて帰
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