行き、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪半から五十坪まで漸次建て増し、ある時は改造後ようやく六ヶ月でさらに改造の必要に迫られたことなどもあった。友人等は私のやり方があまりに姑息《こそく》で、かえって失費の多いことを指摘し、どうせ拡げるものなら将来のことも考えて、一挙に大拡張してしまってはと忠告してくれたほどであったが、私はこれには従わなかった。店が急に広くなってお客様がさびれ、ガランとしてしまう例はいくらもある。後から後からお客様で満たされる店の賑わいを当然であるかのように思い、建築費を節減しようとしてはるかの先を見越しての改築は後悔を招く場合が多い。私はこう考えていたので、その後もやはりお客様の増加に応じて少しずつ拡げて行き、再々増築の手数と費用を我慢したことであった。
その後大正十二年、売上げ一ヶ年二十万円(一日平均五百余円)を見る頃になって、税務官との間に意見の相違を来たし、私個人の店を株式会社に改め、会社から家賃五百円を受け取ることにした。すなわち三分三厘に当る。
最近には売上げもさらに増加して一ヶ月十八万円に達したが、家賃は四千五百円であるから二分五厘となり、すなわち八厘方格安となった。それだけ得意に対し勉強し得ることとなったのである。
店の格を守る
私は経済の点をしばらく離れて、店の「格」というものを考えて見る。人に人格のある如く、店にもいつとなくその店の「店格」というものが出来ている。この店格なるものについては、別に根本的に言って見るつもりであるが、とにかくここではその店の持前持味とでも解釈しようか、一つの商売を大切に護って相当年数を経て来た店というものは、長い間にその店独特の気分をつくり出しているものである。
店の格などというと、階級的な意味に聞えるかも知れぬが、私が言うのはそれではなく、繩のれんには繩のれんの味があり、名物店には名物店の趣きがあり、扱うところの製品を主として店主の気風も自ずからそこに現れ、長年愛顧のお得意の趣味好尚に一致する何物かが、その根底に血脈をなしていることは争われぬのである。すなわちその店特有の空気というか色というか、それはどこがどうと言いようのないものではあるが、天井にも柱にも看板にも、あるいは明りの具合一つにも、きわめて自然に感じられる一種の馴染《なじみ》深さである。
私はこの、古
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