き人々へ

    借金繰りまわしの苦心

 ここで私は少し中村屋創業時代の資金のことについて考えて見たい。『資金さえあればどんな仕事でも出来る』とは人のよくいうところであるが、幸いにどこからか資金が得られたにしても、金には利子がつく。また元金も漸次返却せねばならない。ところが利子も払い元金も返してなお利益のある仕事というものはきわめて少ない。何の仕事にしても、資本を借りてやっていくことはなかなか容易ではないのである。
 前にも記せし通り私が、本郷で中村屋を譲り受けた際には、友人望月氏から七百円を借り受け、それに子供の貯金三百円を加えて、都合一千円を資金として商売を始めたのであるが、幸い成績が悪くなかったからそれ以上の金融を必要とせず、国元からはいささかの補助も受けずにやり通せたのである。
 その後新宿に移って、今の土地を三千八百円の権利で譲り受け、そこへ今日中村屋の誇りとする欅柱の純日本家屋(新宿足袋屋の店)を譲り受けて追分から移し、裏手にパンと日本菓子の工場を建て、食堂、湯殿等も増築しておよそ三千円を費した。これがすべて借金になったことはいうまでもない。
 いまその借金を一々説明する要もないが、とにかく営業の進展とともに流動資本なども大きくなり、やむを得ず家屋を担保として銀行から借りねばならなかった。
 私は高利の金を使っては営業は立ち行かないと考えていたので、一割以上の利子は払わない方針であったのだが、保険金の内借りまでしてまだ足らず、ついに銀行から一割二分の利子で、ほかに借入れ手数料二分、期限の借換えの時に踊りと称して一ヶ月分の利子を取られたので、合計一割五分の高利を払って借金した。
 この高利には閉口した。ほかに預り金と貸家の敷金と、併せて九千余円の借金になった。この時のことである、私は国元へ墓詣りに行くと、父が八分の利子で人に金を貸している。それまで私は一度も父に金の話をしたことはなく、父もまた我々にいっさい干渉しなかったのであるが、なにぶんこちらも苦しんでいる時なので、父が銀行の高利な借金でも融通してくれたらと思い、話をして見た。すると父は、借金が九千円もあると聞いて驚き、『田舎の貴い金を、危い東京などに融通することは出来ない。ただしお前たちが東京でやりきれなくなった時は、何時でも帰って来るがよい。私は両手を開いて迎えてやるから』
 と、まことに父の言
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