、年若き息子の、尋常ならず母に仕ふるさまは、いづれ由緒《よし》ある人の果てと。淵瀬の以前《むかし》知らぬ人も気の毒がり、水臭からぬ隣の細君《かみさま》、お秋が提ぐる手桶の、重さうなるを、助けて運びくるる事もあり。差配の隠居の親切に、何なりとも御用あらばと、いひくるるも嬉しく、泣きて移りし今の住居も、捨て難きまで思ひなりしは、貧に慣れし一徳にやなど、たまには母子《おやこ》の、笑ひ話する事もあり。金之介は学業半途に、呼び戻されて、学校を退きし身の、思はしき口とてはなけれど、世話する人あるを幸ひに、父の没後は土佐堀辺のある私立学校に通ひて、わづかなる俸給に、母子二人の口を糊するを、何よりの事と思ふ身の不運を、心ならぬ事に思へば、いかで今一度青雲の志を遂ぐる楷梯もがなと、精勤更に怠らず、暇あるをりをりは、独学に心を慰むる、若きには似ぬ心掛けの、校長にも知られてやその受けよし。今日は我が方に何か御馳走がある筈なれば、是非に同行して、ゆるゆる話したまへと、深切に勧めらるるを否みかね、母のさぞ待ち詫びたまはむにと思ひながらも、誘はれてそが方に行き、晩餐の饗応《ふるまひ》にあづかりたる後、好める学術の談話に思はず時刻を移し、やうやくに辞し去りたる頃は、はや仲秋望後の月の、大空に輝く時なりけり。
幾度か雪駄直しの手にかかりて繕はれたる靴の、急くほど足痛けれど、携へたる紫メリンスの、風呂敷の中には、校長の注意にて母への土産もあるに、心勇みて玉江橋の中程まで来かかりたる金之介の、足音に驚きてや、橋の欄干に身を寄せたる婦人の、しかも年|弱《わか》く、月の光を受けて面《かほ》の色凄きまで蒼白く美《うるは》しきが一歩二歩歩み出たり。訝《いぶか》しとは思ひながら行過ぎたれど、何となく気にかかりて振り向けば、また立止まりてさめざめと泣くさまなり。あまりの不思議にしばしば見帰れば。かなたも気味悪げにこなたを見たるが。しばし何事をか打案ずるさまにて金之介の傍へ駈け寄り、あなたはもしや兄上様、イイエあの淵瀬の若旦那様ではござりませぬかと、問ふに金之介は驚きて、よくよく見れば稚な顔のいたく大人びて、見違へたれど紛ひもなきお静なり。いかにしてかかる辺りに彷徨《さまよ》へるにやと思へど、今は親しからぬ身の左右《さう》なくは問はず。ただ訝しげにその顔をうちまもるにぞ、お静は涙ぐみながら、言葉せはしくその身のあ
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