よ、旦那の方の味方からいはせれば、さう申すでしやうが、奥様の味方にいはせれば旦那が浮気でとうとう見捨ててしまつたんだと申しませうよ。その中間をとるとして見ても、あんまり安心な御縁とは思ひませんよ。さういふ先例があつたとして見ると、よツぽどお考へものですネーと君子はとかく案じ顔なり。花子は深く心に許す処ありてや、なかなかに首を傾けず、それは私も全く案じぬでもございませんが、ただ今は奇麗な身躰、真実の独身に相違ないと申す事を、兄も信じておりますし、それにこんな事を、自分の口から申すのはなんぼ友人のあなたにも申しにくい事ですけれど、実は先方より私をとのたつての懇望、でも兄は少しその辺を気遣ひましたから、二の足を踏んでゐたのですが、先方では一生見捨てぬといふ証文でも書かうと申す事で、もし見捨てた節には五千円の違約金を出さう、その証書には親族にも、連署さしてもよいとまで申してゐるのですから、減多な事はございませぬといへど君子はなほ案じ顔、そこがさア男の心と秋の空でうつかり御安心は出来ませぬよ。気の向いた時は田も遣らう、畦も遣らうと申しませう、が御結婚なすつた后は、どうしても女は弱身になると申す事ですよ。それはもう男だつても、初めから変はると思ふていふ事ではございますまいが、一度我がものと定まつた上は、煮てもたいても自由だといふ考へになるもんですよ、恋女房といふ筈で貰はれた方でも、いつの間にやら主客が転倒して、女の方ばかしで気をもまなければならないやうになるといふ事です。それも男にいはせれば、女は僻みが強いからだと申しませうけれど、僻むが女の常なれば、僻ますもまた男の僻です。そこを合点した方でも、とかくは波風騒ぐ世の例はどこにもございます。それに始めから疑はしい跡のある方に御身をお任せなすつては幾度もお心をお冷やしなさる事がございませう。その時たとえお約束の証書があつても、先方の心の変はつた后は、何のお役にも立ちますまい、それとも法律の力でもお借りなされたらば知らぬ事、ですがそれではあなたの御名折れとなりますから、五千円位のお金には代へられますまい。とはあまり申し過ぎましたけれど、これは苦労性の私の量見、それも私の姉が出戻りの不幸に逢ひ、さんざん泣かせられましたを、見聞きしての事でございますから、ちと案じ過ごしか存じませんが、その上はあなたのお心次第、お兄様ともよくよく御相談なすつて、今一度お考へになつた上、お極めなすつたが宜しうございませうと、さすがは神経質だけに、処女には似合しからぬ考へなり。花子は君子の深切より、いひにくき事をもいひくるる志嬉しからぬにあらねども、いひ難き子細のあればにや、とかくに心落着かず、君子の詞に耳傾くる内も心はどこの空をか彷徨へるらし。
その四
その后花子よりは、久しく音信なかりしかば、君子はとやらむかくやらむと、心にかかりがちなりしかど、尋ね行かむもさすがにて、そのままに打過ごしに、ある日父母列座にて君子を呼び、父は殊に上機嫌にてのう君、そちもはや年頃じや。いや親の眼からは年頃と思ふが、世間では万年娘といふかも知れぬてや。おれも年月気にかからぬでもなかつたが、さて思はしいもないもので、今日まではまだそなたに聞かした事はないじやテ。ところがその何じや、家へ出入るものからのはなし継ぢやがの、その何じやテ先方の人は今度○○省の○○局長になつた人じやさうだか、年は三十五歳とやらで、非常な学者ださうだ。そしてその何じや大変大臣の気にいつとる人で、まだまだこれからの出世が非常だらふといふ事だ。おれはまだ逢つた事はないが、なるほどその名前を聞いて見れば、よく新聞にも出とる名じやテ。が先方は先づあらかた話の極まるまでは、名前は秘密にしといてくれといふ事だが、甲田美郎といふ人じやそうだ。もつともその年輩だから一度妻を貰つた事はあつたんだ、がそれは都合があつて離縁したんじやそうだ。マアそんな事はどうでもよいがその人が何じやといひてちよつと口の辺りを撫で、その何じやその是非そちを貰ひ受けたいと望んでゐるそうじやが、どうしてそちを知つてゐるのか知らん、ムムムさうか、去年学校へ参観に行つた事があつたのか、それでは知つとる筈じやテ、それなればなほ更都合がよい見合も何もいらないから、どうじや行く気があるか、よもや異存はあるまいなと、君子の父は早独りにて極めゐる様子なり。母もこれに詞を継ぎて、ネー君よもや嫌ではあるまいネー、お父さんも大変御意に召した様子だし、私も誠に願はしい縁だと思ふんだから。御返事がしにくければそれでよい、だまつてゐても事は分かるよネホホホとこれはまた呑込み過ぎたり。君子は最初より父の話のふしぶし一々に胸に当りて、もしや花子のいへる人と、同じ人にはあらざるやと危ぶみぬ。されど何故にや花子はその姓名は告げさり
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