甲田は背を撫でて介抱するやらむ、さらさらと衣の音して、宜しいそれでは早くあなたの御安心なさるやうに致しませう、つい財政を整へてからと思ふので、延引してたんですけれど、近い内に式を挙げませう、さうすれば御安心が出来るでしやうからと、嘘か誠かいと慰め顔にいへるも憎らしく汚らはしく、君子は最早聞くに得堪へず。悚然《しようぜん》として忍び足にそこを立去りぬ。
 さて我が座敷へ戻りて、考ふれば考ふるほど、甲田憎く花子憐れなれど、幸にその身のみは過慮の空しからで、毒蛇の口を遁れたるを喜び、直ぐにも父母にこの一条打明けて、再び甲田を寄付けぬ事にして貰ひたしと、思ふ心ははやりしかど、更に思へばさては我友の為包ましき事をも、いはでかなふまじきをと思ひ返して、この一条は深く我が胸一ツに蔵め置きつ。翌日何気なきさまにて再び花子の方を訪ひたきよし母に乞ひ、新たに花子より聞得たる躰にもてなして、その約束の人はやはり甲田なりしよし告げたれど、父は君子の詞のあまりに前後矛盾せるを恠みてや、たやすくは信すべき気もなく、これは君子の甲田方へ嫁ぐを好まぬより、事を搆へて否まむとするならむと、さまざまにその不心得を諭したりしかど、君子ははや充分の証跡を押へたる上の事なれば、それとはいはぬ詞の内にも、自らなる力は籠りて、遂には父を動かしけむ。さらばともかく今一応甲田の素行を探らせてみやうといふ事になり。さすがにこの度は念入れて、それそれの手蔓求め出したればにや、甲田の内幕ことごとく曝露《ばくろ》して、思ひの外の事を聞くのみなれば、父もいたく打驚きて、さては今の人といふものは、身分のある人でも油断の出来ぬものじやなと、始めて我が眼の晦みゐしを悔ひ、それについても憎きは軽井、危く我が娘を芸者か妾同様にさるるところであつたと、かくなりては一轍なる老人気質、明日ともいはず直ぐに軽井を呼付けて、子細はいはねど覚へがあろうと、それが出入りとともに、甲田の来訪結婚の約をも併せて謝絶しぬ。
 これにて君子も、我が身の上は安心したれど、深くも花子の身を憂ひ、しばしばそれとなく注意を与へしかど、花子は一度君子を疑ひたる上の事なれば、何事をも直ぐやかには聞かず。ひとへに君子の、その身の望みを充たさむとて、我を離間するなりとのみ思ひ僻み、果ては君子を疎んじ恨み、たまたま来り訪ふ事あるも、病に托して逢はぬまでになり行きしかば、君子
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