美しさに、下戸も団子を喰ひ飽きてうつとり眺めゐるもあり。心々に花莚さすがに広き山内も、人の頭に埋められぬ。
君子は今日の好天気に、久し振りの花見せばやと、珍しく父の思ひ立ちに、母とともに連られて、そこよここよ人に押されて見歩行きしが、父の大張込にて昼食は桜雲台の、八百膳といふ心搆へも、あまりの人出に思わくを替へ、と、鶯溪へ折れて温泉に浴しながら、ゆるゆるとうちくつろぐ事となりしに、ここはまた別世界の、ひつそりとしたるが君子の気に入り、父母がささ事の隙に、我は庭下駄はきてそこら見ありきしが、奥まりたる離れ座敷に人のけはひして、男女のささやき聞こへしかば、ハツと思ひて引返さむとしたりしかど、何となくその声音聞き覚へあるやうなれば、よしなき事とは思ひながら徒然なるままに聞き耳立てにしに、思ひきやこれは、甲田と花子の話し声ならむとは。
ほんとにあなたはひどい方ですよ、私に隠して君子さん許へなんか遊びにいらつしつて。なアに隠すも何もありやアしない、行つたつて不思議はないじやありませんか。ではなぜおつしやらないの。別にいふ必要がないんですもの。何必要のない事はありませんわ、君子さんといふ美しい方がいらつしやるのですもの、お父さんばツかしじやありませんから……。アハハハハこれは妙だ、君子さんが居たつていいじやありませんか、それがなぜいけないの。なぜつてそれは――それはあなたのお心に聞いてご覧なさいまし、君子さんが居るからいらつしやるのでしやう。これは大笑ひハハハハでは娘のある処へは、いつさい行ツちやア悪ひといふんですか。なアにさうじやアありません、別に何のおつもりもなければ。つもりツて何のつもりハテナ――。宜しいいくらでもおとぼけなさい、どうせ私は口不調法ですから君子さんには叶ひませんわ。フフフムではあなた妙に疑ぐつてるんですな、これは恠しからん、実に驚いた、さう気を廻しちやア身躰の毒ですよ、もつと大きく気をお持ちなさい。搆《かま》ひませんよ、どうせ私は捨ものですから、と花子はいつしか涙声になり、それで分りました、式を挙げるまでは誰にもいはないやうに、そして君子さんには決して僕の名前を告げちやアいけない、なるべくあんな生意気な人とは交際《つきあ》はないやうになさいなんて、甘く私をお瞞しなすつたのも、みんなそんな思召があつたからなんでしやうとこの声ははや打曇りてよくは聞こへず。
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