れ千代や(細君の名)君に御挨拶に出ろと申せと老父は、殊の外の機嫌なり。甲田はわざと淡泊に、イヤどうも唐突に伺ツて甚だ失敬の至りです。実は私も下手の横好きで、公務の余暇を偸み、いつも軽井を相手に致しとるんですが、是非尊大人と一度お手合せをしてみろと頻りに先生がといひてちよつと軽井の方を顧み、勧めるもんですから、とうとう今日は引つ張り出されてしまつたのです。とてもお相手には足りますまいが、どうか一局御指導を願ひたいものでと、これはわざと談話をよそへ外《そ》らしたり。老人は好きの道、さアどうかさやうでいらつしやるさうで、それではどうかの詞の下より軽井は前刻承知の事、ヲツトマカセと心得てはや床脇に在りし碁盤を二人の間に据へたりける。
 これを始めに甲田しばしば竹村の家をおとづれて、わざと君子には眼もくれず、囲碁の遊びの外余念なきものの振はすれど、来るたび毎にこれは仏蘭西より友人の持帰りたる香水、これは西京にて織らせたるお召と、女の喜びさうなるもののみ土産に持来りて、それとなし君子の意を迎うるを、正直なる老人は野心ありての所為には知らず。どうも今時の人は実に感心じや。私等の若い時分は少しもそんなところまで気が注かなんだのじやがと、何かにつけて感服せり。君子は父より甲田に、確答を与へたりとは知らず、ただかの一条はそのままになりゐる事とのみ思ひゐたるに、かく甲田がしばしば入来るは何となく心にかかり、快からず思へるままに、多くは病に托けて、出て逢はむともせざるを、母はそんな我儘はいはぬものと、宥め慊して甲田の来りし時は、おのれ君子の背後へまわりて急がし立て、髪を撫で付け、帯を結び代へなどして、押出さぬばかりにするさへあるに、父は座敷より声かけて、これ君ここへ来て御酌を申し上げないか、そして拙き一曲でも、御聞きに入れてはどうじやなと、呼立つる忙しさに、いつまで片意地張つてゐる訳にもゆかず心ならずも引出さるるが常なり。真実《ほんと》にお父さまには困つてしまうよ。その人の地位名望といふ事をのみお喜びなすつて、その他の事はお考へなさらないのだから、ほんとに困つてしまうよと独言てど、これとて母にいへば直ぐに父に告げられて生意気な事をと叱らるるのみなれば、独り胸をば悩ましゐたり。
 甲田は君子の花子よりも、思ひの外手剛きに困じたれど、手剛ければ手剛きほど興がるがかかる男の常なれば、ますます勇を
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