居るかえ』
『はいいかがでございますか、ちよいと』
と立ちて大村さん大村さんと呼びながら玄関の襖を明け、
『おやまたどつか行ツちまつたんだよ。奥様居りませんでございます。いつでもね、あなた』
と、三ははや奥様の、御立腹を促し顔なり。
『さうかえ、まただんまりで出て行つたんだらう。真実《ほんと》に困るねえ、大村にも。今日は誰も居ないんだからつて、さういひ付けといたんだに、また無断で出たのかねえ。困るねえ、いくら無作法だつて、あんな男もないもんだよ』
奥様は大村の為に、郵便の事は忘れ果てたまひたるらし。三は大なる腰を、敷居際にどつと据え。
『さやうでございますとも、真実にいけ好かない人でございます。奥様の前でございますが、私達にでもああしろかうしろツて、旦那様よりか、いつそ威張つてるんでございますもの。どこの書生さんだつて、あんな書生さんもないものでございます。私も随分これまで書生さんの在るお邸に、御奉公も致しましたが、大村さんのやうな方は始めてでございますよ。だから私はこちら様へ上りました当季は、御親類の、若旦那様ででもいらつしやるかと存じましたに、尋常《ただ》の書生さんでもつて、あれでは、どう致して通れるもんではございません』
『ああさうだともさうだとも。だから私はいつも旦那様にさう申し上げてゐるんだけれど、御自分で連れていらしつたもんだから、打遣つて置け打遣つて置けとおつしやるんだもの。真実に困つちまうよ。あれでは書生を置いとく、甲斐がないじやないか』
『真実にさやうでございますねえ。お庭のお掃除一ツしやうじやなし、自分で遣う洋燈《らんぷ》まで、人に世話を焼かせておいて、勉強で候のツて、さう威張る訳もないじやございませんか。旦那様の御用ではございますまいし、自分の勉強をさせて戴くのを、鼻に掛けてるんでございますもの、でもそれだけならまだしもでございますが、奥様が何かおつしやつても、直ぐ風船球のやうに膨れるんでございますもの。奥様あんな書生さんをお置きあそばさないでも、いくらもよい書生さんがございますよ。旦那様にさうおつしやつて御覧あそばせな』
とはどこにか思召の、書生様ありと思し。奥様はむろんといふ風に、煙管をポンと叩きたまい。
『仕方がないのよ、いくら申し上げたつても』
『おやなぜでございます』
奥様はじれつたさうに、火箸もて、雁首をほじりたまひながら、
『なぜツてね、別に躰した訳もないんだがね、旦那様があれの親にお世話、いゑ何ね、世話になんぞおなりあそばしやあしないんだけれど、同じ国でお知己《ちかづき》であつたもんだから、それでよんどころなく、めんどうを見ておやりあそばすのさ』
『へー、あんな人にでも親がございますか』
『ホホホホ可笑《おかし》な三だよ、誰だつてお前親はあらうじやないか』
『へー、でもあなたついしか、親の事なんぞ、申した事がございませんもの。もつとも私達に話すなんて、そんな優しい人じやございませんけれど』
『そりやあその筈さ、あつてないやうなものだから』
『へー、じやああんな人ですから、親だつても、寄せ付けないんでございますか』
『何ね、さうじやないんだよ、父親は監獄に這入つてるんだもの』
『おやおやおや、奥様、じやあ盗人の子でございますの。まあ驚きましたねえ。道理で』
と、三は呆るる事|半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ばかり、何をか自問自答の末、急にしよげ[#「しよげ」に傍点]たる調子にて。
『奥様つまらない事を致しましたねえ私の銭入も、全くあの人に、取られたのでございますねえ』
『え、銭入ツて何』
『はいこないだ失くなしました』
『ふむむむ、いつか通りで買つて来たつて、見せたのかえ』
『へい、それにはした[#「はした」に傍点]を少々ばかし、入れておいたのでございますが、それがさつぱりこないだから、知れないんでございますもの』
『だつてお前、それはこのあいだ遺失《おと》したといつたじやないか』
『へい、遺失したんだとあきらめておりますのでございますが、さう承つて見ますると、少し変でございますよ。どうもあなた、遺失した覚えがございませんのですもの』
この三いつも遺失したものを、心に覚えてすると見へたり。奥様もやうやく釣り込まれたまひ。
『さうそりやあ何ともいへないよ。まあよく考へて御覧、まさかとは思ふんだけれど、いよいよとなれば調べなければならないから。何しろあれの親も、盗人じやあないが、お金を遣ひ込んで這入つたんだといふからね』
折しも次間《つぎ》に人の気配、奥様誰ぞと声かけたまへば、大村でござるといふ声の、噛付くやうに聞こへしにぞ、さてはと奥様お奥へ逃入りたまふに、三もとつかは[#「とつかは」に傍点]流しもとへ退《まか》らむとしての出合頭、ぬつと入来る一郎に突当られてアイタタタタ。馬鹿奴ツ、眼を明いて見ろの一声に、当られ損の叱られ徳、疵もつ足の痛さにつけても、三はいよいよ抵抗の気を昂めぬ。
その三
それよりは一郎三との衝突日に烈しきを、あはれ調停の任に当りたまふべき奥方の。何事ぞいつも三の神輿をかつぎ出されたまひ、三が肩には奥様の、光明輝く悲しさに。一郎は毎度泣寐入の、夜毎の夢にも、かの陰口のみは忘れかね。己れやれよくもこの一郎を、盗み根性ありとまで評せしよな。他事はともあれこれのみはと、半夜の衾を蹴つて起き出る、力は山を抜くべきも、ぬきさしならぬ食客の身の悲しさは、理非を旦那どのの前に争はむ力の抜けて。おのれ馬鹿女め、今に見よと、両の拳には、一心に青雲を握り詰むれど、これとて雲を握《つか》む話と、嘲られてはそれまでと、恥を忍び垢を含む一郎が無念無言を。覚えあればぞあの無言、情の剛きあの人に、似ぬ温和《おとな》しさはてつきり[#「てつきり」に傍点]さうと、いよいよ乗ずる三の蔭口、車夫の力松、小間使のおせかまで、異な眼つきにて我を見る、返す返すの心外さに、もう堪忍がと立上る、その足許には奥様の合槌、打つて出られぬ口惜しさの、積り積りて的の外れ。かくまで我を痛罵する、あの蔭口を、猪飼の知らぬ筈はなし。知らずばかれこれ不明、不明にあらずばこれ不仁、いづれに我が先生と仰ぐべき器にあらずと。一念ここに僻みてよりは、斜めに見る眼の観察は狂ひ。その以前より猪飼が仕向け、その意を得ずとも思はれて、今は猪飼に対する、敬意を欠くにも至りしにぞ。さらでもかねて奥の訴訟、なるほどここをいひをつたと、証拠を竢つて判断する、旦那殿は商売柄。一号証より、二号証、三が詞も参考の、一ツに供するやうになりては、また一郎を、善しと思はぬ気色見ゆるにぞ。負けじ魂の一郎が口惜しさ。この人までもさあらむには、何の青雲ここにのみ日は照らじ。高山大嶽至る所、我が攀ぢ登るに任すにあらずや。百難を排し千艱を衝いても、やがては天下に濶歩すべき、この大健児の、首途《かどで》を見よやといはぬばかり。敵手《あいて》に取つて不足なき、敵には背後《うしろ》の見せ易く、奥様と三に忍びし一郎の、旦那殿には忍び得で。溝水《どぶ》も泡立つ七月の天、およそものその平を得ざれば、なるほど音高き日和下駄響かせて、我からそこを追出しは、とつて十九の血性漢なりし。
その四
飯田町何丁目の、通りを除けし格子造り、表は三間奥行も、これに合《かな》ひたる小住居ながら。伊予簾の内や床しき爪弾の音に、涼みながら散歩する人の足を止めて覗へば。奥深からぬ縁側に、涼しさの翠も滴る釣しのぶ、これと並びては岐阜提灯の影、ほの暗けれど。くつきり[#「くつきり」に傍点]と際立ちし襟もとの、白さは隠れぬ四十女、後姿のどこやらに、それ者の果ての見へ透きて、ただは置かれぬ代物と、首傾けて過ぎ行くを。向ふ側の床机に集ひし町内の、若い衆達の笑止がり。いかに青葉好ましき夏なればとて、葉桜に魂奪はれて、傍《かたえ》の初花に心注かぬとは、さてもそそくさき男かな。その母よりも美しき、その娘にお気は注かぬのか。とはまたきつい御深切、通りかかりの人にまで、あの娘を風聴したきほどの、深切があるならば、とてもの事に母子の素生、それはお調べ届きしか。さりとては野暮な沙汰、男気なしの女暮しで、三日に挙げず、料理の御用、正宗の明瓶を屑屋があてに来るといへば、いはずと知れた商売柄、知れぬは弗箱《どるばこ》の在所《ありか》ばかり。さあその弗箱の在所が己れは気にかかる。かかつたところで仕方なし、こればかりは政府《おかみ》でさへも、所得税は徴収せぬに、要らぬ詮索止めにせいと、さすが差配の息子殿は真面目なり。
折から来かかる一人の男、安価《やす》香水の香にぷむと。先払はせて、びらり[#「びらり」に傍点]と見へし薄羽織、格子戸明けて這入ると同時に、三味の音色はぱたりと止まりぬ。
『おや中井さんお出でかえ、さあずつとお上り』
と榛原《ハイバラ》の団扇投げ与ふるは、かの四十女なり。
『へい奥様、お嬢様』
と中井はどこまでも、うやうやしく挨拶して。
『いやどうも厳しいお暑さでございます、せつせつと歩行《あるい》て参つたもんですから』
と言ひ訳して、ぱたぱたと袖口より風を入れ、厭味たつぷりの絹|手巾《はんけち》にて滑らかなる額を押拭ふは、いづれどこやらの後家様で喰ふ、雑業も入込みし男と見へたり。
『これでさつぱり致しました。しかしお邸はたいへんお風通しが宜しいやうで』
と、事新しくそこら見廻すを、年増は軽くホホと受けて。
『中井さんお邸なんて、そんな事はよしておくれ。真実に今の躰裁では赤面するからね。これでも住居には違ひないんだけれど』
『いやごもつともでござります』
と、ここほろり[#「ほろり」に傍点]となりしといふ見得にて、わざと声の調子を沈ませ。
『実に浮世でござりますな。これでもと申しては、失礼でございますが、私どもにとりましては、結構な住居でございますが、さう思召すも、御無理ではございません。あつは世が世でいらつしやいましたならば』
といふに年増は掌《て》を振りて
『もうもう、そんな時代な台辞《せりふ》で、私を泣かせておくれでない。それよりかお前この節は、たいそう景気がよいさうだから、もう幾度か歌舞伎座へ行つたんだらう。そんな話でもしておくれ。くさくさしていけないから』
『ヘヘヘヘこれは大失策《おほしくじり》、大失礼を致しました。ついおいとしいおいとしいが先に立つもんでございますから。肝要《かんじん》のお話が後になつて、禁句が先へ出違ひと、申すはこれも今夕の禁句ホイ』
と掌《たなごころ》にて我が額を叩き、可笑味《おかしみ》たくさんの身振にて、ずつと膝を進ませ。
『実はその少し耳よりなお話で伺つたのでございますがやはりおち[#「おち」に傍点]は歌舞伎座と申す訳。ヘヘヘ失礼ながら奥様お嬢様には、まだどちらへも御縁はお極りあそばしませぬか』
こなたも耳よりなる話に、年増もぐつと乗出して、思ひ出したやうに手を叩き、氷と、そして何かお肴をと急に小女にいひ付くるも、現金なる主人振なり。中井はしめたと腰据えて。
『実はその何でございます。名前は少し申し上げかねますが、さる新華族様の若殿が』
『ふむむむむむ』
と冒頭第一、気受けよき様子に、中井はいよいよ乗地になり
『実はその若殿様と申すは、御養子様なんでいらつしやいますが。その奥方のお姫様と申すが、まだ十五のおぼこ気ばかりではなく。一躰にちと訳のある御|性質《たち》で、とても奥様のお勤めが、お出来あそばさぬと申すところから。そこは通つた大殿様、新華族様だけにお呑込みも早く。乃公《おれ》に遠慮は要らぬから、奥の代はりになる者を、傍《そば》近く召使ふがよいと。さばけた仰せに若殿様も、御養子のお気兼なく、お心のままと申す訳になつたのでございますが。さてさうなつて見ますると若殿様も、うつかりしたものをお邸へ、お呼びとりになると申す訳に、参りませぬと申すのもさういふ訳でございますから、奥方は表向きのお装飾《かざり》物ばかり、内実はそのお方が、御同族方への御交際向きから、下々への行渡り、奥様同様のおきりもりを、あそばさねばならぬ訳でございますから
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