が、やうやく今日御用に立つたといふ訳だから』
『これはきついお小言、ありやうは奥様と申すに、あまりどつとした口はないもので』
『それはいふだけお前が野暮だよ。旦那のお顔に対しても、こちらからはどこまでも、生真面目に出掛けらあね』
『いやこれは重々恐れいつたいは、こんな事にひけとらぬ中井才助、今日といふ今日、始めて一ツの学問を』
『ホホホホ馬鹿におしでない。そんな事はどうでもよいから、そこをどうぞ甘《うま》くね』
『もちろん仰せにや及ぶべきでげす。じや奥様これでお暇乞を、明日は早朝に先方へ参りまして、茶屋と日限を取極めました上、いづれ重ねて御挨拶を。随分重くろしいのが、気に入る方でございますから、当日はお嬢様極彩色でお出掛を』
と、無礼の詞も慾故には、許す母娘《おやこ》がにこにこ顔。おさうさう様といふ声も、いつになき別誂へ。小女までも心得て、直す雪駄のちやらちやらと。揃ひも揃ひし馬鹿者めと。鍵の手になりし三畳の間より、ぬつと出で来し一人の書生鼠にしては珍柄の、垢染の浴衣腕まくりして、座敷の真中にむづと坐し、罪なき皿小鉢睨め廻すは、この家に似合はぬ客人なりかし。

   その五

 そもこの男を誰とかなすと、この人の出端だけは、堅くるしく、書かねばならぬ大村一郎。ついでながらその身の上のあらましを記すべし。
 一郎が父耕作といふは、かつても彼がいひし通り、宮城にては、隠れなき旧家の大地主。その分をだに守りなば、多額納税の、数にも入るべき身上なりしに、小才覚ありて素封家には、似合はしからぬ気力ありしが、その身の禍、明治も廿、廿一の、政海の高潮四海に漲りて、大同団結の大風呂敷、ふわりと志士を包みし中に、捲き込まれての馴れぬ船出、乗合とてはいづれを見ても、某々の有力家、その来往を新聞に、特書せらるるほどの国士ながら、金力には欠乏を感ずる饑虎の羊となりて、耕作が前にはやつちややつちや、下へは置かぬ待遇方《もてなしかた》。某の伯爵殿の前にも政客の、上坐を占むる客将の楽しさ、なかなか小作の与茂作や太五兵衛に、旦那旦那と敬はるる類にあらずと。一足飛びのゑらもの[#「ゑらもの」に傍点]に成済ませし、嬉しさの込み上げて、それよりは東京住居、家族も芝辺に引取りて、やれ何倶楽部の集会で候の、政社組織の準備のと、とかくに金の要る相談掛けらるるも、乃公《だいこう》ならでは夜の明けぬ、頼みある中の
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