近所へ出歩行《である》くは、今日に始まりたる事にもあらず。昨日も隣へ行きたるまま、久しく帰り来さりしかば、父の吩咐《いいつけ》にて呼びに行きたるに、母はその時眼に角立てて「何か用かい、用でなければおッ母さんが帰るまで来なくツても宜しい。朝から晩まで病人の顔ばかり見てゐては、気がクサクサしておッ母さんまで病気が出そうだ、それにお父さんも、昨日や今日の病人ではなし、久しい間の事だから、そう後生大事に、二人が附添《つい》てゐなくつても、ちつとは我慢をしたがよい。何だねこの子は、何をグヅグヅしてるんだ。サツサツと帰つてお父さんにさうおいひ。帰る時分が来たら、呼びによこさなくツても帰るッと」大変に叱られたれば、今日もまたその通り、呼びに行つたとて帰らるる事にてはなかるべし。なまじい呼びに行つてまた叱られ、帰つてから昨日のやうに、お父さんにあたられ[#「あたられ」に傍点]てはそれも苦労と、思ひ返して父に向ひ「ナニネお父さん、おッ母さんは今に帰つて来るだらふよ。何ぞ用ならその間、私《あたし》が」「イヤ別に用事ではないが、お前は昼中働いて、労《つか》れてもゐる事だから、せめて夜だけでも、おッ母さんに代はらせやうと思つてよ」「それなればなほの事、私はちつとも睡《ねむ》くはないから。お父さん気を揉まないでおくれ。それよりはおッ母さんの帰るまで、背など摩擦《さす》つて上げやう」と、小さき手にて身一ツに父の看護を引受けつ。別段辛い顔もせぬ、娘の心の優しさに、父の心も和らぎけむ、摩擦られながら、うとうとと寝《まどろ》みかかりぬ。
 お袖今帰つたよ、表の戸鎖《とじま》りをしておくれ。何だネー霄《よひ》の内からこの暗さは、「オヤおッ母さんお帰り、何ネおッ母さんはをらぬし、お父さんも寐たから、それで贅費《むだ》だと思つてランプの芯を引込めて置いたんだアネ。ハア巨燵《こたつ》――巨燵はとうに拵へて、今しがたおッ母さんの寝衣《ねまき》も掛けて置いたよ。アノネおッ母さん、晩方買つて来た炭団は大変に損だよ。小さくつて柔らかで、今巨燵を明けて見たらもうちやんと、半分から灰になつてるんだもの、同じ一銭に八つんなら、先の方がよつぽど得だよ。今度から先の家へ行つて買つて来ようネー」といかに貧しく暮せばとて、十四や十五の小娘の、口から出やう詞《ことば》とも、思はれぬほど気のつくは、これも平素《つね》からとやかくと、
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング