から、今日は肉も肴も要らない。あつさりとしただし[#「だし」に傍点]で、冷素麺ならば造作もなからう。この間某の宅で振舞はれし、それは実に甘《うま》かりし。あれは実に幸福だ、細君が料理の上手故にと、あてこすりの誉め詞は、確かに我を批難の心か。さても憎し縁側で、髭をひねるその手間で、なぜこの台所の忙しさ、手伝ふては下されぬかと、奥様のお腹立はまた一倍。なんでもない事冷素麺、それはかうするものであろと、さつと一杓水かけて、すすぎし上のゆで加減、何とでござんす良人《あなた》と、この頃の信用恢復に、鼻もたかだかさし付くるつもりなりしに、青菜に塩のそれならぬ、生素麺に水の奇特。さても不思議やめちやめちやの惣潰れ、打つて一丸となすべきも、引延ばされぬ時間の切迫。まだかまだかとせつかるる、奥様ははや絶躰絶命。この失策を披露しては、またまた相場が下がるであろと、思ひ付きの急腹痛あいたあいたとうめかかるに旦那様も大|吃驚《びつくり》。どこぢやさすつてやらうかと、ひだるきお腹に力一ぱい、お部屋へ扶け入りたまひての御介抱振。まんざら御愛情の失せしでもなき御様子に、奥様もほつと安心の、その次にはお気の毒、始めて素麺の仔細、かくかくと打明けての御懺悔、あまりの事に旦那様もお腹は立たず。我も貴様を、潰して遣ふつもりならず、やはりこれも素麺同様、潰しの利かぬ代物だつたか。これでは思案を代へねばならぬと、己が名の霜太霜太を、幾度も繰返したまひしとかや。(『女学雑誌』一八九七年七月二五日)

   下

 約定証書の持腐りは、犬も喰はぬ喧嘩の本色
 提燈に釣鐘、釣り合はぬは不縁の基と、いひしは昔の昔の話。今では愛情の、一致だにあらば、よし華族様の御夫人に、小屋ものの娘が上らうとも、長持のせぬには限らぬ箪笥釣台、取揃へての拵へ取り、大流行の世の中とて、そんな事気にするものはなき、太平の御代に、これもたしかそのお仲間とか聞きし。名も数寄屋橋近くに、金輪内雅と名のりたまふ紳士様。門柱太しく立てし黒板塀、官員様ならば高等官三四等がものはある御|生活《くらし》向き。旦那様のお時計と指輪だけにても、確かに千円の価値《ねうち》はと、隣の財宝《たから》羨むものの秘かにお噂申しける。それしては高利貸めきたる男の、革提《カバン》下げたるが、出這入りするも異なものと、これはいふだけ野暮の沙汰か。お年は三十五六と見ゆれど、雀百までには、まだ六十年からの御余裕のある事とて、なかなかの御出精。女といへば醜美に拘らず、ざら撫での性悪を御存じの上でお乗込みありし、奥様もまた曰くつき。そんな顔は少しもなさらねど、三二年前までは、水谷町辺で母娘二人のしがない[#「しがない」に傍点]暮し。味噌漉下げてお使ひ歩行の途中とは、それは人の悪口なるべけれど、どこやらにて、当時幅利きの旦那様に見初められたまひしが、釣合はぬ御縁の緒《いとぐち》。人橋かけての御申込みにも、うかとは乗らぬ女親の細かい采配。萌え出る春に逢はせまするは嬉しけれど、かれかれにならせたまはむ、秋の末が気遣はれましてと。いやではなきお断りの奥の手は、一生見捨てぬといふ誓文沙汰。万一にも浮気らしい事した節には、何時離縁をいひ出らるるとも、一言も申すまじ。またその節には違約金として、幾千の金を差出すべし。もちろん母御の一生は、当方にて引受ける筈、そには月にいくばくの手当と。注文通りの一札を、まんまと首尾よく請取つたる上、やつとの事でお輿入ありしといふ、金箔付きの恋女房様。さすがは多くの女ども、見飽きたまひし旦那の御|鑑識《めがね》ほどありてと、御|容貌《きりやう》には誰も点の打人《うちて》なきに、旦那様も御満足の、その当座こそ二世も三世も、浮気はせまいと心の錠。いささかもつて偽りを仰せられし訳ではなけれど、光明輝く黄金仏も、一年三百六十五日、打通しての開帳には、有難味も失する道理。そろそろ性悪の尻尾押さへられてはそのつどに、たびたびのいざこざもあつた末、うかうか年を過ごしてはと、奥様は口惜し紛れ、こんな時こそ証文が、ものいふ人を頼んで来うと、愛から慾へ廻り舞台。仕掛も大形な弁護士三昧、示談で行かずば表沙汰。愛はどうでも金だけは、取逃さぬ工夫をと、身分の軽い人だけに、お意気込も御大層なる掛合振りに。旦那様も大|吃驚《びつくり》、忘れたではなき証文の、文言を持出されては大変と、これも然るべき弁護士頼み込みての御応対。犬も喰はぬ喧嘩ながら、書いたものがあるだけに、弁護士の歯牙にはかかりて、やつさもつさの談判も、旦那の方がどうやら負気味。離婚といふに未練はなけれど、金輪内雅の名詮自称、やりくり一つで持つ機関《からくり》に、幾千円の穴明けてはと。金に七分の未練ありて、弁護士同士が四角四面の交渉中。こちらは丸う出直せし旦那の智恵|嚢《ぶくろ》、かへつて直接
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