いひ触らして。名残は尽きぬ母様の御面影、かつは大名縞のむかし我に優しかりし、方様の御声音も残るなつかしの家居を、そのまま同業の人に譲りて。残れるは代にかえて身に纒い、直ぐその足にて諏訪町をおとづれ。いつもの如く和子をあやすと見せて、我が手にかき抱きたるまま、ツとそこを紛れ出でぬ。方様はさておき、罪なき奥様の跡にてのお歎きいかなりけむ。思へば惨《むご》き事なりしを、心狂はしきまで方様を恨みし我は。奥様をも和子をも、かつは我が身の上までも、忘れ果てしぞ浅ましき。
それよりかねてかうと心積もりせしかくれ家の。これは我が方に年久しく事《つか》へし下女《おんな》の梅といふが、浅草の西仲町に嫁ぎゐたるをたよりゆきて。これは我がある方様と、契りてのかくし子なるが、面目なきに連れて立退きぬ。しばしかくまひてよといふに、梅は夫と顔見合はせて、とみには答へぬもどかしさに、これは当座の世話料と。少なからぬ金渡せしに、地獄の沙汰もこれとかや。夫婦の色はとみに解けて、二言といはぬに何事も、呑込顔の追従笑ひ。槌で庭掃くまでこそなけれ、夫婦が手と手を箒代はり、奥の一間を片付けて、等閑《なほざり》ならずもてなすにぞ
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