日《いつ》になく、沈んだる調子にて、何か考へいたりしを、見しといへり。また一人は、昨日途中にて、予に出会いしかど、予はただその顔を見たるのみ、彼が何をかいひたるに、答へずして行き過ぎたりと告げたりき。されば予は、例の如く、学校にも行きしものと見ゆ。されども予は記憶せず、予はただ彼女の事のみを思ふ。予は実に、不思議なる人と、なりたるかな。予はもと、父母より稟《う》けたる、資質と、しかも自らの修養とに依り、物に動せざる特性は確かに、備へをりたり。この点は人よりも称せられ、また自らも恃《たの》みいたりしなり。故に今日まで、いかなる場合、いかなる事変、いかなる人物に接しても、怖るる、あわてる、驚くなどいへる事は、なかりしに、彼女に対しては、予は全く眼|眩《くら》み、口|咄《とつ》し、耳|聾《ろう》し、恍惚として、自他の境をも、弁ぜざるものと、なりたるなり。これまで、強情なる男といはれたる予が、彼女の前には、一処女の如く、化し去らるるなり。予が彼女の前にある時は、彼が予に、何事をか、命じくれまじやと冀《こひねが》ふのみ。予が全身は、彼女の前に捧げ物となる。予が特性、予が自負、ここに至つて全く烟散
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