一青年異様の述懐
清水紫琴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)画《えが》く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)眼|眩《くら》み、
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恋愛を知らずして、恋愛を画《えが》くは。殆んど素人の、水先案内をなすが如し。いはんや、異性の人の、恋愛においてをや。されどかれは、誤れば人命を傷《そこな》ふの恐れあれど、これは間違へばとて、人の笑ひを招くに止まると、鉄面にものしぬ。予は敢へて、恋愛を説くといはじ。ただその一端はかくやらむと。疑ひを大方に質《ただ》すのみ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]つゆ子しるす
予は何故に、彼女のこと、かほどまでに、心に掛かるか、予が彼女に始めて逢ひたるは、たしか数日以前の事にてありき。その後予は、彼女の事について、思ふ外は、何事をも思はず。また彼女に再び逢はむとて、一二度予が友の家へ行きたる外は、何事をなし来りたるかを記憶せざるなり。ただある一人の友は、予が二三日前学校の窓に依りて、何日《いつ》になく、沈んだる調子にて、何か考へいたりしを、見しといへり。また一人は、昨日途中にて、予に出会いしかど、予はただその顔を見たるのみ、彼が何をかいひたるに、答へずして行き過ぎたりと告げたりき。されば予は、例の如く、学校にも行きしものと見ゆ。されども予は記憶せず、予はただ彼女の事のみを思ふ。予は実に、不思議なる人と、なりたるかな。予はもと、父母より稟《う》けたる、資質と、しかも自らの修養とに依り、物に動せざる特性は確かに、備へをりたり。この点は人よりも称せられ、また自らも恃《たの》みいたりしなり。故に今日まで、いかなる場合、いかなる事変、いかなる人物に接しても、怖るる、あわてる、驚くなどいへる事は、なかりしに、彼女に対しては、予は全く眼|眩《くら》み、口|咄《とつ》し、耳|聾《ろう》し、恍惚として、自他の境をも、弁ぜざるものと、なりたるなり。これまで、強情なる男といはれたる予が、彼女の前には、一処女の如く、化し去らるるなり。予が彼女の前にある時は、彼が予に、何事をか、命じくれまじやと冀《こひねが》ふのみ。予が全身は、彼女の前に捧げ物となる。予が特性、予が自負、ここに至つて全く烟散霧消す。これそもそも何の理由なるや、予その所以を知らざるなり。かつて聞く、昔泰西の学者の間に行なはれたる説に、知識の石(ストーン、オフ、ウイスドム)または、聖哲の石(フイロソフアース、ストーン)てふ宝石ありて、この宝石は、鉛を銀にし、銅を金にし、またよく不老不死の、仙薬を製し得るの、怪力ありとて、遂にその石の探求に、終生を擲《なげう》ちたるの学者もありきと、もし彼女は、これら宝石の類にはあらざるか。予は深くこれを疑ふ。しかれどもかの宝石の説は、ただこれ学説上の、妄想迷信より出でたるものにして、一人《いちにん》もこれを発見したるものなかりしといへば。今日かくの如きもののあるべき筈はなし。さらばいよいよ彼女の怪力は、不可思議なり。彼が予の特性を奪ひ、予の本質を変じたるの事実は、昭々として数日以来予の眼に映ずるところ予は実にその原因を、講究せざるべからざるなり。よつて予は先づ彼女と始めて、相見たりし時に遡《さかのぼ》りて、それより、順序を追ふて、考ふべし。予が最初彼女と、友人の宅において出会ひし時は、わづかに一二語を交へたりしのみ。別段親密に、談話をなせしといふにはあらざりしかど、彼女が非凡の資質は、どことなく顕はれ、予は先づこれに対して、敬といふ念起こりたり。しかして平素種々の関係よりして。婦人を土芥視し、もしくは、悪魔視しいたりし予は、彼女の前に、いと小さきものと、なりたるが如き心地し。処女の如く、謹んでうづくまりいたりき。この時よりして、予は実に、一般婦人に対する考へもまた大ひに変わり旧時の予の考へは、大ひに誤れるものなりしことを悟りたるが。それにしても、彼女の資質、少しく異様なるやうに思はれ。一層深く、これを探究したしとの念起こりたり。ここにおいてか、事に托して友人に乞ひ。なほ一二回彼女に接見したり。その間言一言を交へ、語一語を加ふるに及んで。予が最初の、探究の念はもちろん。予が本質さへ、全くいづれへか消え失せて、予はかへつて予が全心を、彼女の前に捧ぐるものとは、なりしなり。他に何の事情も。何の関係もあることなし。思ふにこれぞ世にいはゆる恋なるか。ああ恋なりああ恋なり恋に相違なし。予は確かに恋をなせるなり。テモ不思議、偏屈予の如きものも、遂に恋をなすの時機に、遭逢したるか。さても恋なり、恋としても、彼女は、実に不可思議の力を有するなり。さらば、その恋の原因は、なん
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