磯馴松
清水紫琴

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真実《ほんと》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|食《じき》だア。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なる[#「なる」に傍点]口
−−

   上

 ゲエープツ、ああ酔つたぞ酔つたぞ真実《ほんと》に好い心持に酔つて。かう酔つた時の心持は実に何ともいへないや。嬶《かかあ》が怒らうが、小児《がき》が泣かうがサ、ハハハハゲエープツ、ああ好い心持だ。こんな心持は天下様でも恐らく御存じはあんめえ。チヤアンと何もかも御存じなのは、お月様ばかりだ。お月様てえ奴は実に憎くない奴よ、おらがあすこでもつて飲んでる時アどうだ甘《うま》いだらうと、いつたやうな顔付でもつて見てござる。いざ帰らうとなると、チヤアンと外へ出て、先に立つて歩行《あるい》てござらア。いくら酔つても溝へ落つこちないのは、全くお月様のお蔭なんだ。全くだ実に有難てえや。その上かうして家まで送つて下さつたからツて、嬶アに告げ口一ツなさらうぢやなし、送り込んどいてずんずんと西へ西へとお歩行なさる。実にそこは大気なものさネ。たまにやア一ペイお上がんなさいと申し上げたいんだけれど、下界は嫌だと見向きもなさらないところがえれえやハハハハ。いやえれえといへば今晩の嬶アの権幕もまたえれえ事だらうよ。あれでももとはまんざら話せねえ女でもなかつたんだけれど、世帯を持つて小児が出来てからといふものは、そこは女の浅ましさだネ。お前さんはなる[#「なる」に傍点]口だけに、気が捌けてて嬉しいよと、あいつめ背中を叩きアがつた事を忘れてサ、そんなに飲んぢやいけない、あんなに酔つちやア済まねえと、毎日日にちおれを意地めやアがるんだ。真実に女子といふものは仕方のないものさネ。まんざら素白《しろ》い素生でもねえ僻《くせ》に、男の身躰は、酒で持つんだてえ事を、忘れやアがつたから、まるツきり話せねえや。オツト危険《あぶ》ねえ、すんでの事溝へ落つこちるところだつけ。
 空を仰ぎて
[#ここから1字下げ]
 ハハハハお月様が笑つてごさらア、あんまりおれが夢中になつて愚痴をこぼすもんだから。
[#ここで字下げ終わり]
 独言《ひとりごち》つつ月もあかしの町外れを、一歩は高く一歩は低く、ひよろりひよろりと来かかる男、煮染めたやうな豆絞りの手拭、だらし[#「だらし」に傍点]なく肩に打掛けて、仕事着の半纏も、紺といはれしは、いつの昔の事やらむ。年月熟柿の香に染みて、夜眼には鳶とも見紛ふべきが、片肌はぬげかかりて、今にも落ちさうなるには心付かねど、さすが生酔の本性は違はでや、これも人の住家にやと、怪しまるるあばら屋の門辺にて立止まり、
[#ここから1字下げ]
 ここだここだ違げへねえ違げへねえ、いくら酔つても、この家を、覚えてるところがえれえぢやねえか。じやアお月様、御免なさいし、毎度どうも有難うがす。
[#ここで字下げ終わり]
 振向きたるまま、さらでも倒れかけし表戸に、ドサリ身を寄せ掛けたれば、メキメキと音して戸とともに転げ込みし身を、やうやくに起こして、痛き腰を撫でながら、
[#ここから1字下げ]
 チヨツ危険ねえや、こんな戸を鎖しとくもんだから、ヲイお千代火を見せてくんな、まるで化物屋敷へ踏ン込んだやうだ。
[#ここで字下げ終わり]
 呼べど答へなきにニタリと笑ひ、
[#ここから1字下げ]
 ウウ山の神はもう寝ツちまつたんだな、まづは安心上々吉の首尾だ。また遅いとか早えとかいつて、厳しい御託を蒙らうもんなら、せつかくの興も醒めて、翌朝また飲直しと出掛けなくツちやアなんねえのだ、ヤツコラマカセ
[#ここで字下げ終わり]
と戸を飛越えて、
[#ここから1字下げ]
 南無八幡ぢやアなかつた、山の神大明神、この酔心地醒まさせたまふなかハハハハ
[#ここで字下げ終わり]
 興に乗りて柏手一ツ二ツ叩くを、前刻より寐た振りして聞きゐたる女房、堪へかねてや、かんばり[#「かんばり」に傍点]たる声張上げ、
[#ここから1字下げ]
 何だよお前今頃に帰つて来て、何を面白さうに独りで饒舌《しやべつ》てるんだ。もう疾《と》くに最終《しまい》汽車は通つてしまつたよ。早く這入つておしまひな。馬鹿馬鹿しい、近所合壁へも聞こえるや。
[#ここで字下げ終わり]
 小言ききながら手暴く枕もとのかんてら[#「かんてら」に傍点]ひきよせて、マツチも四五本気短く折り捨てたる末、やうやくに火を移せしを見れば、垢にこそ染みたれ、この家には惜しきほどの女房なり。
[#ここから1字下げ]
 いや有難てえや、早く這入れとは、神武以来の御深切だ。実はかうなんだ、あまり閾《しきい》が高えもんだから、それでつい躓いたのよ。ぢやア真平御免なさいやしかハ
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング