袖にははらはらと玉散りて、お顔を背けたまふかなたの木影に、しよんぼりと立ちし男の子、田舎にも珍しきまでむさげなるが、これもしくしく泣きゐる様子に、奥様は我を忘れて、いぢらしがりたまひ、
[#ここから1字下げ]
 ばアや、何だらうあの子供は、可愛さうに泣いてるぢやアないか。聞いて御覧、連れにでもはぐれたんぢやアないか。
[#ここで字下げ終わり]
 老女も御機嫌損ねたる末のよきつき穂と、
[#ここから1字下げ]
 オヤさやうでございますねー。承つてみませう、どう致したのでございますか。
[#ここで字下げ終わり]
 いひながらかの子の傍へ立寄りて、優しく問ひ掛けしに、子供心にも人の深切身にしみじみと嬉しくてや、忍び泣きの急に切迫して、泣きしやくり上げながらのとぎれとぎれ、
[#ここから1字下げ]
 ああおらアおツ母アを探しに、須磨まで行つて来たんだ。ちやんがお酒ばかし飲んで、構はないもんだから、おツ母アは去年の暮にどこかへ行つてしまつたんだ。
 ヲヤお前のやうな可愛い子を置いてかえ。
 ああだからおらアそれから毎日おツ母アを探してたんだ。それでもまるツきり知れないから、おらアいくらちやんに、おつかアを呼んで来てくれろツて、頼んだか知れやアしないんだ。
 さうだらうともさうだらうとも
 するとちやんが怒つたアな、あんなおつかアがそんなに恋しきやア、おつかアの所へうせろツて。おらアおつかアの処へ行かれる位なら、始めツからちやんを頼みやアしないや。それからおらア……
[#ここで字下げ終わり]
といよいよ泣声になり、
[#ここから1字下げ]
 おつかアに逢ひたくツても、ちやんが怖いから何もいやアしないんだ。おつかアの事をいふと直ぐ叱るから。
 オヤマア可愛さうに、さうかい。
[#ここで字下げ終わり]
と老女は復命代はり奥様の方を振向きぬ。奥様は傍らの松の幹にもたれて、余念なく聞き入れたまふを、老女の瞳につれてこなた向きし子は、不意に奥様を認めて、その神々しきまでと蒼白く美しく、高尚《けだか》きに気を打たれ、円き眼を瞠《みは》りて見詰めゐたりしが、再び老女に、
[#ここから1字下げ]
 それからどうおしだえ。
[#ここで字下げ終わり]
と問はれて我にかへりたれど、なほも奥様の方を気にして、我知らず着ものの前など掻き合はせながら、
[#ここから1字下げ]
 だけれどちやんが正月から煩ひ出して、仕事にもゆかず、好きなお酒も飲まないで、寐てるんだ。おらアほんとにどうしやうかと思ふと、またおつかアの事を思ひ出したんだ。でもちやんはもう叱らないよ。おつかアの事をいつても……。ねえ伯母さんちやんはもうおつかアの事は怒つてゐないんだらうか。ねえさうだらうね。だからおらアまたそこら中聞いて歩行たんだ。おつかアを連れて来やうと思つてよ。
[#ここで字下げ終わり]
 実《げ》にもとうなづく老女の顔を見て安心し、またそつと奥様の方をぬすみ見るに、目睫《めまじ》もせで我が顔をまもりゐたまふに気後れしてや、しばし行きつまりてまた覚束なき語句をつづけ、
[#ここから1字下げ]
 するとおつかアは須磨の村雨亭といふお茶屋にゐると教へてくれたんだ。近所の桂庵の婆さんがよ。
[#ここで字下げ終わり]
 怨めしさうに声顫はせて、
[#ここから1字下げ]
 そりやア先から知つてたんだけれど、おつかアがいつちやアいけないといつたから、それで言はなかつたんだと。でもちやんが煩つてるものだからツて、内証で教へてくれたんだ。それも今朝の事よ。だからおらア直ぐその足で須磨まで行つて来たんだ。
 エ須磨まで行つたのかえ、よくまア独りで行かれたね、可愛さうに。
[#ここで字下げ終わり]
と老女目をしばたたきて更に奥様の方に向ひ小腰を屈《かが》めて、
[#ここから1字下げ]
 何でございますとね、これが独りで須磨まで参つたのでござりますと。
[#ここで字下げ終わり]
 奥様も聞きゐたまふことを改めて伝達するも、あまりの事に感心してなるべし。奥様もしばしばうなづきたまひ、始めて優しきお声にて、
[#ここから1字下げ]
 さう、そして分つたかえ。
[#ここで字下げ終わり]
 老女に聞くともなく、かの子に聞かずとしもなく問ひたまへば、
[#ここから1字下げ]
 ああ分つたよ、分つた事は分つたんだけれど……
[#ここで字下げ終わり]
 大粒の涙をポトリポトリと落としながら、
[#ここから1字下げ]
 おツかアは疾《と》くに大坂へ行ツちまつたとさ、何でも大坂から養生に来てた、金持の旦那に連れられて、行つたんだと。
[#ここで字下げ終わり]
 この一句に老女は端なくも奥様と顔見合はせて胸轟かせつつ、忙《せは》しく子供に向ひ、
[#ここから1字下げ]
 フム不思議な事もあるものだね、ではお前のおツかアの名は何
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング