移民学園
清水紫琴

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)炊《かし》ぐ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)朝夕|爨《さん》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]はる事、
−−

   上

 身は錦繍に包まれて、玉殿の奥深くといふ際にこそあらね。名宣らばさてはと、おほかたの人もうなづく、良人に侍り。朝夕|爨《さん》が炊《かし》ぐ米、よしや一年を流し元に捨てたればとて、それ眼立つべき内証にもあらず。人は呼ばぬに来りて諂《へつ》らひ、我は好まぬ夫人交際《おくさまつきあい》、それにも上坐を譲られて、今尾の奥様とぞ、囃し立てらるる。これがそも人生の不幸かや。
 春の花にも、秋の月にも、良人は我を棄てたまはず。上野に隅田に二人の影、相伴はむことこそは、世事に繁き御身の上の、御心にのみも任せたまはね。庭の桜の一片をも、我とならでは愛《め》でたまはず。窓の月のさやけきにも、我在らずは背きたまふ。涙は我得てこれを拭はむ、笑みはそなたに頒かたむと、世に優しくも待遇《もてな》させたまふ、これがそも人生の不幸かや。まして我が良人《つま》は、学識卓絶、経綸雄大、侠骨稜々の傑士にして、しかも温雅の君子なりと、名にのみ聞きて、よそにだも、敬慕せし君なりしを、ゆくりなき知遇により、迎えられて、妹よ背と、呼び呼ばれ参らする中とはなりし身なるをや。もしこれをしも不幸といはば、はた何をかは、人生の幸とはせむ。
 さあれ絶対無限てふものは、かの唯一の御神とぞいふなる、大精霊大動力を除きての外になき限り、いかでか不幸の伴はぬ幸福の幸の伴はぬ不幸てふものあるべきや。もし満足を、開悟の外に求めなば、人は天地を我が有とするも、未だもつて絶対の幸福とするには足らじ。一心ここに頓悟せば、身は三界に家なきも、またもつて幸とするには足る。悟れば幸も不幸もなき世に、悟らぬ内が人生の、おもしろ、うたての人の身や。
 我も数には漏れぬ身の、差別の外には出で難く、嬉し悲しは切なるを。なまじひなる幸福に、身を包めばぞ人知れぬ涙の淵には、沈むなる。羨ましきは世の中の、人の栄華を羨むほどの、無邪気なる人々よ。繿縷《つづれ》の袖に置く露の、そればかりが悲しき涙か。錦繍《にしき》の上に散る玉は、よしや生命の水なるも、飾れるものにあやまたれ、何ぞと人の問はぬにも、心は千々に砕くるなる。砕けて墜ちて、末遂に、もとの雫の身とならば、憐れを人の訪ひもせめ、珠の輿にも乗れるよと、見ゆらむほどの今の身の、歎きをそもや誰にか語らむ。天は永久《とこしえ》に高く、地は永久に低し、しかも天の誇りを聞かず、地の小言《つぶやき》をしも聞かざるに。人ばかりは、束の間の、いふにも足らぬ差別を争ひ、何とて喧々囂々《けんけんがうがう》たる。浅ましとは知る身にも、さて断ち難き、恩愛恋慕の覊絆《きづな》にぞ、かくても世には繋がるなると、朝な夕なの御歎きを、知らぬ世間の口々に。さりとては、御気随意なる奥様や、世に成上りものは、これでいやでござんする。嬉しさうな顔しては、お里が知れやうと思ふてか、どこまで行つても不足な顔、ああか、かうかと機嫌を取る、旦那も旦那、奥様が、憎らしいではござんせぬか。ほんにその事、私などは、年中世帯の魂胆ばかり、晴衣一枚着るではなし、芝居も桟敷で、人らしう見せられた、覚えはさらさらござんせぬ。それでもやつぱり脹れ物に、触るやうにしてゐてさへ、またしても小言の八百。よしんば去ねといはれたところで、帰る里には父母《おや》もあり。兄はかなりな商法家、奉公人の三四人は、召使ふてもゐますれば、不自由は、良人の方にこそ。里へ帰れば母親が、甘いといふではござんせぬが。出戻りとても家のもの、他家《よそ》から這入つた嫂なぞにひけ[#「ひけ」に傍点]とらす気遣ひは、さらさらもつてござんせぬ。それでもこれが女子の役目と、辛抱すれば、よい気になり。あなたの前ではござんすが、大事にしたは、その当座、ほんの二月ばかりの事。やれ気が利かぬ、おかめ[#「かめ」に傍点]じやと、初手から知れた私の鼻が、急に低いか何ぞのやうに、高い声での悪口も、頭脳《あたま》の上を超せばこそ。すめばすむ、家請けまでも兄の判、母がくれます小遣金《こづかひ》が、帯側にもなる事か。帯は帯でも、世帯の方へ、廻したは、三上山を七巻、はんぱものでもそれ位の金高にはなりまする。それを恩にも着る事か、よその乙姫探してばかり。ほほほ戯談《じようだん》ではござんせぬ。真実女子に生まれたほど、割の合はぬが定ならば、あきらめやうもござんすが。今尾様の奥様の御噂聞きては、なぜかうも、同じ女子の運不運違ふものかと、不美貌《ぶきりよう》に生まれた身躰の親をまで、つくづくと怨みまする。それは私も同じ事、したがお聞きあそばせや。満つれば欠くる鼻位、低いところで不具ではなし。人をのろはぬ証拠の穴、二ツ揃ふてゐるからは、それでも鼻を、よも人が穴とばかりは申すまい。それがむつくり小高うて、栄耀に凝つた細工もの、手で拵らえたか何ぞのやうに、器用に出来たその尖頭《さき》には、得てして、天狗が引掛り、果ては世上の笑柄《わらひもの》、美貌《きりよう》が仇でござんする。近い例《ためし》は今尾の奥様、押出しはよし、容貌《きりよう》はよし、御教育もあるとやら。やらやら尽くしで殿達は、近来の大騒ぎ。何でもあんな細君《おくさん》をと、独身《ひとり》ものはなほの事。私といふものある前で、主人《やど》までが品評め。お前なんぞはそちらの隅にと、いはぬばかりの誉め方を、致した事もござんすが。誉れは、結句譏りの基因《もと》。気になるからの詮索を、どなたがなさつたものじややら。今は知らぬものもない、お里方の根を洗へば、梢に咲いた花ばかり、美麗しう見えたとて、これもひよんなものじやのと。手に取れぬだけ、皆様が、思ひ切つての悪口を、主人の口から聞いた時、それ見た事かと、可笑《をかし》さを、わざとこちから誉め返し、誉めた口からいはせたは、浮気男によい懲らしめでござんする。ほほほまお人の悪い、してその悪口と仰しやるは。さ、その事でござんする。あの奥様のお里といふは、秋田様とは表向き、世間を繕らふ仮の親、真実《まこと》は高利も、わづかな資本《もとで》の金貸業。それも父御は独りもの、偏屈か、ただしまた廻らぬ世帯の窮屈か。婢も置かぬ男手に、御飯も炊けば、金も貸す。かすかすの利息をば、あの人に入れ揚げて、何とやらいふ女学校へ、稚い時から預け切り、廿歳の時に卒業を、そのまま其校《そこ》に、教師三昧せられたも、思へば硝子の窓入娘、透き徹るほど美麗しい、容貌の置き場が置き場ゆゑ。くるくる巻の束髪には、惜しい姿と、今尾様、どこを廻つた手蔓やら。秋田様の嬢様とて、御婚礼のその時は、なるほど立派でござんした。おほかたそれも拵え取りの、金に飽かした衣裳なり、人形もさすが、あれほどの、御|人品《ひとがら》ゆゑその当座は、あつと人眼を眩ませた、それまではよかつたが。実父は間もなくどこへやら、引越しといふ噂も、底を探れば、逃水の、捉まえどころもない行衛。何でも高利の貸仆れに、我も仆れて、逃げたが定か。それともにも、今尾様から、こつそりどこぞに、貢いででも居らるる事か。噂はさまざま、先こそ知れね、隠居所が確かにあると、申す事でござんする。でも区役所は、失踪と相場も極まつて、表向き、通路の出来ぬ、親持つほどの御身分を、お忘れなされた僣上沙汰。栄耀の餅の皮は、あのくつきりと美麗しいお顔に粘《へば》り付いたやら。千枚張の鉄面《あつかま》しい、お鬱ぎ顔が分らぬと、女中達まで、とりとりの噂は聞いてゐましたが。主人の口から申させれば、まさかさうでもあるまいがと、今に未練の冒頭《まへおき》を、残してゐるだけ、憎らしうござんする。ほほほま際どいところで、やきやきとあそばすだけ、あなたはまだもお畳の新しいと申すもの。私なぞは、土足のままに踏み暴《あら》さるる板場の扱ひ、嫉妬《やく》なとはさておいて、うつかりすれば、今の間も、この身躰が焚きものに、つぶ[#「つぶ」に傍点]されでもせぬ事かと、腹が立つそのたび毎、羨ましい種子にもしました、あの奥様の御身分も、今の委しいお話では、あんまりどつといたしませぬ。それではやつぱり御見込通り、どれ程旦那が出世をしても、まだまだといふ顔を、世間へ見せて、内実の喜びは隠しておく、これが上品高尚と思ひ違えた成上がりの、根性でござんせう。そこを思へば、叱られても、不自由な世帯に縮んでゐる、女子はまだも世間から、目指されぬのを徳にして、じつと忍耐《しんぼう》致しませう。ほほ、御忍耐がどんなものやら、あてにはならぬあなた様のも、旦那の方からお勤めを、羨んでゐるものが、ちつとは世間にござんする。あらまお人の悪い、それならさうと致しましよう。でも私は主人にばかし、勤めさせは致しませぬ。私からも二倍だけ。はいはいそれでたくさんでござりまする。ただし旦那の御歳費が、二千円の翌日から格別の御待遇ではござんせぬか。ゑゑもさう内輪から、火を出すものではござんせぬ。それもこれもお互いに、岡目ならば知らぬ事。その身になれば、よしこれが殖えたところで、家内の手へ、落ちるものではござんせぬ。新橋や柳橋へ安心して流すだけ、山の神の祠は破損と申すもの。川上へ潤ひが廻るほどなら、八百でも世帯は立派に固めまする。そこを思へばいよいよもつて、お気の毒なは今尾様、歳費をあてになされぬほどの、御|財産《しんしよ》もある上に、浮気一ツなさるでなく、奥様ばかりを蝶花の、離れぬ番ひとあそばすに。一人はどこを飛んでゐる、脳味噌は天辺に、上るほど香に誇る、奥様を追ひ掛けての御機嫌とりは。今度いよいよ二度目の政党内閣に大臣の御顔触れ程でもない、おむづかしい事でござんしよと、姫御前のあられもない、口も叩けば調子も、合はす。ばちはてきめん、我が事も、人の背後《しりへ》に笑ふぞと、知らぬが花の模様もの、着た夫人《おくがた》の集会も、あながち長屋の女房達に、譲らぬが世の習ひなるべし。

   中

 さりとては草臥《くたびれ》し。党務だけも忙しいこの身体を、内閣へひつぱり出されしその后は、夜ともいはぬ来客に、ろくろく休む隙はない。それもさるべき要事なれば格別なれど。名さへ覚えぬ地方の党員までが、続々人材の登録望みには恐れるから。やうやく不在と切上げても来たなれば、今宵は久し振り、寛ろげるでもあらうかと、奥まりたる書斎へ、今しも遷坐の身をゆつたりと、縁側近く端居して、しづかに髯を撫で上げたるは、かの今尾春衛なり。年齢は四十歳を、迫らぬほどの眉根濃く、眼光の烱々《けいけい》たるものあるにも、それとは著き風采の、温雅にもまた気高し。これを迎えてさぞやさぞ、お疲れあそばしたでござんしよにと、三尺去つて、良人の傍、先づ何よりと、団扇の風、慰め顔に侍るは、これぞ噂のその人ならむ。今日結ひたての大丸髷も、うつむきめの艶やかに、縞絽の浴衣は、すらりと肩を流れし恰好、何としてこれが女教師上がりの夫人《おくさま》と思はるべき。笑みも溢《こぼ》るる、青葉の雫、あれ御覧あそばしませ。人工の夕立ほど、水打ちました三蔵が大働き。螢が飛んでゐるやうで、築山のあたりが、いつそう奇麗でござんする。官邸の月と御題をあそばすも、御一興でござんせう。花やお湯をと取寄せて、煎茶手前もしとやかに、滴らす玉露のそれよりも、香り床しきこの人をそもやそも誰がすまぬお顔と名づけけむ。独り居てこそもの思へ、思へる事のありぞとは、良人《つま》に知られじ、知らさじと、思ひかねては、墜ちも来る、涙を受けて、掌は白粉も溶く薄化粧。紅も良人《おつと》へ勤めぞと、物憂さ隠す身嗜み。瞼ばかりは、ほんのりと、霞に匂ふ遠山の、桜色をばそのままの、腥燕脂《しようゑんじ》には代用して、粧ひ凝らす月と日も、積もれば人の追々に、忘るるものと思ひきや。良人の出世を見るにつけ、我が身の里の
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清水 紫琴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング