謡はるる、それもよけれど、今頃は、どこにどうしてゐたまふとも、知らぬ父上なつかしや。たとへばどこの果てとても、ここにかくての一言を、我一人には夢になり、御沙汰したまふものならば、よしや来るなのお詞を守るにしても、朝夕を、少しは慰む方あらむ。子細のあれば、身を隠す、我は現世になきものと、ひとへに良人に冊《かしづ》けよ。我は元来|強情《すね》ものの、人交はりは好かぬ身を、心にもなき大都の風に、顔|曝《さら》せしは、誰が為ぞ。日本一の花聟に、添わせむまでの父なりし。今尾春衛の妻はあれ、この親爺の娘とてはなき、身の上の気散じは、今より后の我世界を、破れ庇《ひさし》の月に嘯《うそぶ》き、菜の花に、笑ふて暮さむ可笑《おかし》さよ。忘れても世の中に、血属《ちすじ》は一人の父にさへ、離れたる身の、宿業を謹みて、春衛殿に、愛想|竭《つ》かさるるな。我をいづこと、求めむ心の出でなむには、それだけ多くを、良人に尽くせ。尽くして尽きし百年の、寿命は今尾の土となれ。土となりて、魂のかの世に逢はむその時にぞ、今日の子細は語るべし。それまでは、一ツの秘密を持てる身の、よしや天地に耻なきも、世に辱《はじ》あらむそれよりは、身の秘密をば、社会の裡面に葬りて、悠々の天命をしも楽しむべきを。なまじひなる孝念に、我が所在を探らむは。我が志を傷つけて、我が耻辱を世人の前に、曝露するの所為たるなり。我への不孝、良人への、不貞この上あるべからず。謹んで秘密の匣《はこ》たる我が行衛《ゆくゑ》に、生涯手を触るまじきものなりと。世にも不思議の御教訓を、寄せたまひつるその后は、御|音信《おとづれ》も、幾月を、絶入りてこそ歎けども、これに濡れたる袖ぞとは、良人《つま》の御眼に掛けられぬ、御手紙は、生きての記念《かたみ》、死ぬまでは、何とも知らぬ御秘密のありと思へばなほ更に、御身の上の気遣はしく。ふり残されし身一ツに、雨をも、雪をも、御案じ申し上げれども。かくと明かせぬ切なさは、世に隔てなく待遇《もてな》したまふ、良人《つま》へ我から心の関。父の為には隠すをば、孝と思へば、貞ならぬ、身はさながらに大罪を、冒せるものの心地して。優しきお詞聞く毎に、身を切らるるより、なほ辛きを、じつと我慢の忍耐《しんぼう》強く。我一人して御|行衛《ゆくえ》を、探りてもみるそれだけは、よしお詞に背いてもと。思ふ甲斐なき手がかりも、慰めかねし胸に
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